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“ドリームチーム”——バスケットボールの歴史を大きく変えた12人の使徒たち【五輪史探訪|1992年バルセロナ前編】

出野哲也

2019.11.08

“ドリームチーム”として集結した12人のスーパースターたち。彼らがバスケットボールの歴史を大きく変えた。(C)Getty Images

 バスケットボールはサッカーに次いで、世界で2番目に人気があるスポーツと言っていい。200を超える国と地域で競技が行なわれ、NBAファイナルのテレビ中継も、同じく200か国以上で放映されている。バスケ人気が低い国は、インドなどの南アジアくらいではないだろうか。

 だが、30年前まではこのような状況からは程遠く、競技人口こそ多かったものの、人気はそれほど高くなかった。バスケットボールが現在の地位を築いたきっかけ、それは1992年。バルセロナ五輪を席巻したアメリカ代表チーム、通称〝ドリームチーム〞の影響によるものだった。
 36年からオリンピック競技となっていたバスケットボールだったが、アマチュアスポーツの祭典にプロ選手の参加は長い間認められていなかった。というよりも〝プロフェッショナルのバスケットボール〞自体が、90年代に入るまで世界にほとんど存在せず、プロを公言していたのはNBAと、CBAなどアメリカのマイナーリーグ、そして世界一バスケ熱が高いフィリピンのPBAのみだった。

 アメリカに次ぐ強豪国のソビエト連邦やユーゴスラビアは、共産主義国家のためプロという概念自体がなく、それなりにレベルの高かった西欧(イタリア、ギリシャなど)のトップリーグも、実質的にはプロであっても名目上アマチュアを維持。プロであると認めてしまえば、オリンピックに出られないのだから当然と言えるだろう。

 しかし80年代後半以降、オリンピックは急激に商業化の色を濃くしていく。当時のIOC会長アントニオ・サマランチは「オリンピックは世界最高の大会であり、最も優秀なアスリートが集まる場所でなければばらない」という考えの下、88年ソウル五輪のテニス競技を皮切りに、プロ選手解禁を急ピッチで進めていた。そしてそれは、当時のNBAコミッショナーだったデイビッド・スターンが推し進める、グローバル化の戦略とも完全に一致していた。

 こうした流れを受け、FIBA(国際バスケットボール連盟)は89年4月、国際大会へのプロ選手参加を承認する。それでもなお、アメリカは90年の世界選手権には大学選抜チームを送り込んでいたが、準決勝でユーゴスラビアに敗れ、さらには91 年のパンアメリカン大会ではプエルトリコにまで敗北。88年ソウル五輪での銅メダルから始まった失態の連続に、もはや悠長なことは言っていられなくなった。92年のバルセロナ五輪において、アメリカはNBAが誇る精鋭たちを送り込み、国技とも言えるバスケットボールで金メダル奪還を目指すことになったのだ。
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