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ミラクルショットで“NYの気温を上げた”ジョンソン。荒くれ者から真のリーダーになった男の物語【レジェンド列伝・後編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2021.05.20

1996年のニックス加入後は成績が下降。それでも99年のカンファレンス決勝では劇的な4ポイントプレーを成功させ、ファイナル進出の立役者となった。(C)Getty Images

 ジョンソンとアロンゾ・モーニングという未来のスター候補を加えたホーネッツは"フューチャーブルズ"と呼ばれ、将来を嘱望されていたが、両者はやがて反目し合うようになる。

 ジョンソンはモーニングが自己中心的だと感じ、モーニングの目にはジョンソンが親分風を吹かしすぎると映っていた。お互いに「ホーネッツの中心選手は自分だ」というプライドもあった。

 1993年10月にはジョンソンが12年8400万ドルという、チームスポーツ史上最高額の契約を交わしたことで、モーニングとの契約延長が困難となってしまった。

 高額すぎると批判を浴びた契約を正当化すべく、気合いを入れてジョンソンは93-94シーズンに臨んだが、12月の試合で背中を強打する。オフの間に手術した椎間板の痛みが悪化し、彼のジャンプ力は以前の高さを失ってしまった。ジョンソンが31試合を欠場したこの年、ホーネッツはプレーオフにすら進めなかった。

 それでも94年の世界選手権では「ドリームチーム2」の一員として金メダルを手にし、94-95シーズンも81試合に出場した。ケガでインサイドでのプレーが難しくなった分、3ポイントの精度を高めて平均18.8点とまずまずの数字を残し、2度目のオールスター出場も果たした。
 
 95-96シーズン開幕直前にはモーニングがマイアミ・ヒートへトレードされ、ホーネッツはジョンソンのチームとなるはずだったが、シーズン終了後にはアンソニー・メイソン、ブラッド・ローハウスとの交換で、彼自身がニューヨーク・ニックスへトレードされた。

 ニックスにはパトリック・ユーイングやアラン・ヒューストンなど得点源が何人もいたため、ジョンソンの得点は前年の20.5点から12.8点にまで下がった。それでも彼の貢献度は数字以上のものがあったと、チームメイトたちは証言している。

「その気になれば20点や30点は楽に稼げただろう。でも彼は自分の得点はどうでもよかった。真のチームプレーヤーさ。背中の具合が良くなくても、一度だって練習を休まなかった」(ハーブ・ウィリアムズ)。「まさしくリーダーだった。練習には真っ先に来て、最後まで残る。コートにいない時は必ずウェイトトレーニングをやっていた。自分だけでなく、チームメイトの動きもすべて把握していた。俺が選手として成長したのも、ラリーを見習ったからなんだ」(カート・トーマス)
 
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99年プレーオフで歴史的なミラクルショットを炸裂