NBA

チェンバレンの“100点ゲーム”の舞台裏。いくつかの条件が重なり、歴史的大偉業が成し遂げられた【NBA秘話|後編】<DUNKSHOOT>

大井成義

2021.09.14

未来永劫語り継がれるであろう、チェンバレンの“100点ゲーム”。その偉業は、いくつかの条件が重なったことで達成された。(C)Getty Images

■前人未踏の1試合100得点を可能にした下手投げフリースロー

 いくら怪物チェンバレンといえども、1試合100点という大量得点は、狙って取れるものではなかった。その証拠に、自身2番目の得点記録は78点(トリプルオーバータイム)、3番目以降は73点(2度記録)、72点、70点と続く。史上最高のスコアリングマシンの力をもってしても、90点台、80点台ですら一度も記録できていないのだ。

 ではなぜ、たった一度だけ、とてつもない記録を達成できたのだろうか。調べてみると、いくつかの要素が重なったことにより生まれた、言わばミラクルな出来事だったようだ。

 歴史的快挙は、1962年3月2日、ペンシルバニア州ハーシーで成し遂げられた。あのハーシーズ・チョコレートで有名な街である。ウォリアーズの本拠地フィラデルフィア(当時)ではなく、なぜハーシーで試合が行なわれたのか。この頃のNBAでは観客の確保と宣伝のため、ホームタウン以外の街でも試合が頻繁に開催されていた。1961-62シーズン、ウォリアーズは全80試合中14試合を別地で開催し、そのうち3試合をハーシーで行なっている。
 
 ウォリアーズのレギュラーシーズン残り試合数は5、戦績は46勝29敗。当時2ディビジョン制だったイースタン・ディビジョンで堂々の2位に付けていた。一方、対戦相手のニューヨーク・ニックスは、27勝45敗とダントツ最下位。力の差は歴然だった。

 プレーオフ圏外だったニックスの選手たちのモチベーションは低く、さらには先発センターのフィル・ジョードンが風邪で欠場。この日センターで先発を任されたダレル・イムホフの証言によると、ジョードンの欠場理由は風邪ではなく、二日酔いだったそうだ。

 控えセンターだったイムホフは、プロ2年目の白人選手で、チェンバレンとは身長8cm、体重25kgの体格差があった。3年目にしてシーズン平均50.4点を叩き出し(史上1位)、無双状態だったチェンバレンを止める手立てはなく、案の定ファウルトラブルに陥る。代わって送り込まれたセンターはプロ1年目のルーキー。チェンバレンの相手になろうはずもなかった。
 
NEXT
PAGE
“グラニーショット”で不得手なフリースローを奇跡的な確率で決める