背番号別にNBAの過去~現在の選手たちをつなげる当企画。今回は「40番」編をお届けする。
■レインビア、ケンプなどビッグマンが多く着用
これまでNBAとABAの両リーグ合わせて170人が40番を背負ってきたが、目立った活躍を見せた選手はほぼ全員がセンター、あるいはPFという極端な傾向が見られる。
史上最高の40番には、ビル・レインビア、ショーン・ケンプの2人が挙げられる。ただ、選手としての実力だけならケンプに軍配が上がるだろう。
89年にシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に入団したケンプは、抜群の身体能力を生かした迫力満点のダンクの雨(rain)を降らせ、コートを支配(reign)したことから"レインマン"と呼ばれた。クリーブランド・キャバリアーズでの3年間は背番号4だったが、そのほかの年は一貫して40番をつけ続けた。
一方、存在感や影響力といった点では、史上屈指のヒールと呼ばれるレインビアも引けを取らない。身体能力はケンプの方が断然上だったが、こちらは明晰な頭脳の持ち主で、心理的に相手より優位に立とうと、意図的にラフプレーを仕掛けた。
屈強な体格を誇り、84、86年にはリーグ最多のリバウンド数を記録。彼なしでは"バッド・ボーイズ"時代のデトロイト・ピストンズの連覇はあり得なかっただろう。レインビアの控えセンターだった背番号53の"ブッダ"ことジェームズ・エドワーズも、インディアナ・ペイサーズとキャブズ在籍時には背番号40で活躍していた。
40番で永久欠番となっているのは、レインビアとバイロン・ベックの2人のみ。ベックはデンバー・ナゲッツがABAに所属していた時代のセンターで、同リーグで2度オールスターに出場し、77年に球団初の欠番となった。
このほか、アトランタ・ホークスの40番も事実上の欠番扱いになっているが、これは2005年に現役だったジェイソン・コリアー(彼もまたセンターだった)が28歳で亡くなったのが理由である。
ナゲッツではベックの控えで背番号10だったマービン・ウェブスターは、77年にソニックスへ移ってから40番に変更し、得意のブロックショットで"ヒューマン・イレイザー(人間消しゴム)"の異名をとった。
デレク・ディッキーは75年にゴールデンステイト・ウォリアーズが優勝した時のPF。スティーブ・ステパノビッチは、83年のドラフト全体2位でペイサーズに入団し、5年間で平均13.2点とまずまずの活躍を見せたが、ヒザを痛めて27歳の若さで引退を余儀なくされた。
同じ83年のドラフト組には、ヒューストン大時代にアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラーらとともにダンク軍団"ファイ・スラマ・ジァマ"を形成したラリー・ミショーもいたが、プロでは大成せず、わずか2年でリーグを去った。
■レインビア、ケンプなどビッグマンが多く着用
これまでNBAとABAの両リーグ合わせて170人が40番を背負ってきたが、目立った活躍を見せた選手はほぼ全員がセンター、あるいはPFという極端な傾向が見られる。
史上最高の40番には、ビル・レインビア、ショーン・ケンプの2人が挙げられる。ただ、選手としての実力だけならケンプに軍配が上がるだろう。
89年にシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に入団したケンプは、抜群の身体能力を生かした迫力満点のダンクの雨(rain)を降らせ、コートを支配(reign)したことから"レインマン"と呼ばれた。クリーブランド・キャバリアーズでの3年間は背番号4だったが、そのほかの年は一貫して40番をつけ続けた。
一方、存在感や影響力といった点では、史上屈指のヒールと呼ばれるレインビアも引けを取らない。身体能力はケンプの方が断然上だったが、こちらは明晰な頭脳の持ち主で、心理的に相手より優位に立とうと、意図的にラフプレーを仕掛けた。
屈強な体格を誇り、84、86年にはリーグ最多のリバウンド数を記録。彼なしでは"バッド・ボーイズ"時代のデトロイト・ピストンズの連覇はあり得なかっただろう。レインビアの控えセンターだった背番号53の"ブッダ"ことジェームズ・エドワーズも、インディアナ・ペイサーズとキャブズ在籍時には背番号40で活躍していた。
40番で永久欠番となっているのは、レインビアとバイロン・ベックの2人のみ。ベックはデンバー・ナゲッツがABAに所属していた時代のセンターで、同リーグで2度オールスターに出場し、77年に球団初の欠番となった。
このほか、アトランタ・ホークスの40番も事実上の欠番扱いになっているが、これは2005年に現役だったジェイソン・コリアー(彼もまたセンターだった)が28歳で亡くなったのが理由である。
ナゲッツではベックの控えで背番号10だったマービン・ウェブスターは、77年にソニックスへ移ってから40番に変更し、得意のブロックショットで"ヒューマン・イレイザー(人間消しゴム)"の異名をとった。
デレク・ディッキーは75年にゴールデンステイト・ウォリアーズが優勝した時のPF。スティーブ・ステパノビッチは、83年のドラフト全体2位でペイサーズに入団し、5年間で平均13.2点とまずまずの活躍を見せたが、ヒザを痛めて27歳の若さで引退を余儀なくされた。
同じ83年のドラフト組には、ヒューストン大時代にアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラーらとともにダンク軍団"ファイ・スラマ・ジァマ"を形成したラリー・ミショーもいたが、プロでは大成せず、わずか2年でリーグを去った。
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