■アルコール依存症から復活し選手として全盛期を迎える
マリンはチーム内で感じる孤独やストレスをアルコールで発散していた。そんな惨めな状態から彼を救い出したのは、ウォリアーズのGMを務めていたドン・ネルソンだった。自分自身のトラブルに正面から向き合え、逃げてはいけないとネルソンに諭され、マリンはアルコール依存症治療のため、施設に入ることを決意した。 87年12月のことだった。
厳格な施設で1か月半にわたって治療に専念し、 マリンは心身ともに生まれ変わった。 「彼に背中を押されなかったら、今の自分はない。 僕は彼に命を救われたんだ」と感謝の言葉を述べるマリンに対し、ネルソンも 「他人に対して正直になり、心を開くようになった。今の彼なら、誰もが自分の息子にしたいと思うだろう」と、治療の成果に満足した。
以前にも増して猛練習に取り組み、翌年の1月20日に復帰すると、残りのシーズンで平均21.2点を記録。翌88-89シーズンには自己最多の26.5点、以後5年連続で平均得点は25点を超え、 91-92シーズンの25.6点はジョーダン、カール・マローンに次いでリーグ3位だった。
ポイントガードのティム・ハーダウェイが「マリー(マリンの愛称)にパスをすりゃ、必ずアシストがつく」と言ったのも大袈裟ではないほど、この頃のマリンは最高級の得点マシンだった。
当時のウォリアーズには、マリン以外にもハーダウェイ、 それに88年に加入したミッチ・リッチモンドも毎試合20点以上を稼ぎ、超攻撃的なバスケットを展開して喝采を浴びていた。3人の頭文字をとって “RUN-TMC”と命名されたこのトリオは、90-91シーズンには合計72.5点をマークした。
だが、91年にリッチモンドがトレードされ、RUN-TMCは解体されてしまう。 ファンにとっても残念だったが、「僕たちはとてもいい感じでプレーしていたのに」とマリンも落胆を隠せなかった。
■キャリアのハイライト。ドリームチームでの活躍
バルセロナ五輪でもマリンは平均12.9点で、金メダル獲得に貢献。 国際ルールの短い3ポイントラインからとはいえ、易々とロングシュートをねじ込み、世界中のバスケットボールファンに強い印象を与えた。 2度のオリンピックのどちらがより思い出に残っているかと問われたマリンは、迷わずこう答えている。
「84年の金メダルも嬉しかったけど、ドリームチームは格別だった。あれだけのメンバーと一緒に毎日を過ごし、モンテカルロでトレーニングキャンプをしたんだからね」
マリンはチーム内で感じる孤独やストレスをアルコールで発散していた。そんな惨めな状態から彼を救い出したのは、ウォリアーズのGMを務めていたドン・ネルソンだった。自分自身のトラブルに正面から向き合え、逃げてはいけないとネルソンに諭され、マリンはアルコール依存症治療のため、施設に入ることを決意した。 87年12月のことだった。
厳格な施設で1か月半にわたって治療に専念し、 マリンは心身ともに生まれ変わった。 「彼に背中を押されなかったら、今の自分はない。 僕は彼に命を救われたんだ」と感謝の言葉を述べるマリンに対し、ネルソンも 「他人に対して正直になり、心を開くようになった。今の彼なら、誰もが自分の息子にしたいと思うだろう」と、治療の成果に満足した。
以前にも増して猛練習に取り組み、翌年の1月20日に復帰すると、残りのシーズンで平均21.2点を記録。翌88-89シーズンには自己最多の26.5点、以後5年連続で平均得点は25点を超え、 91-92シーズンの25.6点はジョーダン、カール・マローンに次いでリーグ3位だった。
ポイントガードのティム・ハーダウェイが「マリー(マリンの愛称)にパスをすりゃ、必ずアシストがつく」と言ったのも大袈裟ではないほど、この頃のマリンは最高級の得点マシンだった。
当時のウォリアーズには、マリン以外にもハーダウェイ、 それに88年に加入したミッチ・リッチモンドも毎試合20点以上を稼ぎ、超攻撃的なバスケットを展開して喝采を浴びていた。3人の頭文字をとって “RUN-TMC”と命名されたこのトリオは、90-91シーズンには合計72.5点をマークした。
だが、91年にリッチモンドがトレードされ、RUN-TMCは解体されてしまう。 ファンにとっても残念だったが、「僕たちはとてもいい感じでプレーしていたのに」とマリンも落胆を隠せなかった。
■キャリアのハイライト。ドリームチームでの活躍
バルセロナ五輪でもマリンは平均12.9点で、金メダル獲得に貢献。 国際ルールの短い3ポイントラインからとはいえ、易々とロングシュートをねじ込み、世界中のバスケットボールファンに強い印象を与えた。 2度のオリンピックのどちらがより思い出に残っているかと問われたマリンは、迷わずこう答えている。
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