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NBA

【NBAスター悲話】“ピストル・ピート”マラビッチ――コートに死したバスケットボールの申し子【後編】

大井成義

2020.01.07

マラビッチの現役最終年にNBAは3ポイントシュートを導入し、彼は15本中10本を沈めている。ロングレンジも得意としていただけに、導入がもう少し早ければとてつもない得点記録を打ち立てていたかもしれない。(C)Getty Images

マラビッチの現役最終年にNBAは3ポイントシュートを導入し、彼は15本中10本を沈めている。ロングレンジも得意としていただけに、導入がもう少し早ければとてつもない得点記録を打ち立てていたかもしれない。(C)Getty Images

■NBAを席巻した稀代のショーマン

 1970年のNBAドラフト、マラビッチは1巡目3位でアトランタ・ホークスから指名を受ける。その時結んだ190万ドルの契約は、当時の契約金としては破格なものだった。1年目のシーズンは平均23.2点とまずまずの成績を残したものの、2年目にはスランプに陥り20点を割り込んだ。

 迎えた3年目、マラビッチは本来の姿を取り戻す。リーグ5位となる平均26.1点、6位の6.9アシストを記録し、オールスターやオールNBA2ndチームにも選ばれた。翌年にもリーグ2位の27.7点という好成績をマークし、2年連続でオールスターに選出。マラビッチの活躍がチームの勝利に結びつくことはさほどなかったが、それでも彼のプレーを一目見ようと客足が途絶えることはなかった。

 プロ5年目となる1974年の5月、1974-75シーズンからリーグに新加入するニューオリンズ・ジャズが、チームの目玉選手として地元ルイジアナ州の英雄マラビッチ獲得に乗り出した。選手2人プラス将来の1位指名権2つ、2位指名権2つ、3位指名権1つと引き換えに、ジャズはマラビッチの獲得に成功する。そのトレードをきっかけに、マラビッチのプレーはよりいっそう輝きを増していった。
 
 ジャズでの2年目以降、マラビッチはNBAでのプライムタイムをついに迎えることになる。1975-76シーズン、リーグ3位となる平均25.9点を記録し、初めてオールNBA1stチームに選ばれた。その翌年には平均31.1点をマークし、2位を5点近く引き離して堂々の得点王に輝くと同時に、3度目のオールスターと2度目のオールNBA1stチームにも選出。チームの成績こそ芳しいものではなく、マラビッチ1人に頼るプレースタイルに疑問が呈されることもあったが、マラビッチは選手個人としてNBAの頂点に上り詰めたのだった。

 1977-78シーズン、それまで低迷を続けていたジャズはようやく上昇気流に乗ろうとしていた。だが、チームの好調ぶりとは対照的に、マラビッチの両ヒザはバクテリアの感染と腱炎が原因で悲鳴を上げはじめていた。それでも、1月に破竹の8連勝を飾り、マラビッチ自身もリーグの平均得点部門1位を快走。ところが、次の試合で致命的ともいえるケガを負ってしまう。

 ファーストブレイクの際、普通にパスを投げれば良かったものを、十八番ともいえる20m(コートの約2/3)のビトウィーン・ザ・レッグパスを放ち、着地に失敗してヒザの靭帯を損傷。手術を施すも、全盛期のシェイプを取り戻すことはできなかった。
 

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