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NBA

ドクターJ、ドミニク、ジョーダン、カーター……多くのスターが伝説を残したスラムダンク・コンテストの歴史

大井成義

2020.02.15

ドクターJことアービングは1976年、ABAダンクコンテストの初代王者。NBAでは84、85年大会に出場したが優勝はならなかった。(C)Getty Images

ドクターJことアービングは1976年、ABAダンクコンテストの初代王者。NBAでは84、85年大会に出場したが優勝はならなかった。(C)Getty Images

 その跳躍力は伝説と化し、当時イギリスのギネスブックがリサーチに訪れ、世界記録に認定されたほどだった。トンプソンはその年の参加選手中最も低身長だったが(公称193㎝、実際は190㎝なかったとされる)、ドクターJは「彼は7フィート(213㎝)あるかのようにプレーする」と評している。

 優勝を飾ったのは、最後に劇的なレーンアップ(フリースローラインから踏み切ってのダンク)を成功させたドクターJ。2位は史上初めて360をボースハンドで決めたトンプソンが獲得。全盛期を迎えつつあったダンクアーティストと、若き天才ダンカーによる夢の共演に、アリーナに詰めかけた満員のファンは熱狂した。

 翌1977年、NBA初のダンクコンテストが開催された。ABAでの成功を受けて、2匹目のドジョウを狙ったのだった。当時放映権を持っていたCBSとNBAは、オールスターのサブイベントではなく、規模を拡大し、なんと1シーズンを通して敢行した。

 各チームから選出された総勢22名がトーナメント形式で戦い、全米中継の試合のハーフタイムに1対1でダンクの技を競いあう。決勝はNBAファイナルのハーフタイムに開催。CBSとNBAは、回を重ねるにつれどんどん話題性が増し、最後は大盛り上がりのなか、人気ダンカーによるバトル目論んだが、そうは問屋が卸さなかった。
 
 目玉選手のドクターJは、賞金の増額を要求するも拒否され出場を辞退。トンプソンやガービンはトーナメント序盤で敗退する。優勝を飾ったのは、ペイサーズのシックスマンで、知名度的には数段落ちるダーネル・ヒルマン。ニックネームは“ドクター・ダンク”。

 主役級の選手が早々と姿を消したことにより、大会は途中からグダグダになってしまった。あまりの盛り上がりのなさに、このダンクコンテストは黒歴史と化し、その後NBAの正史から抹消された。ヒルマンは幻の初代ダンク王となっている。

 NBAが公式に認める初のダンクコンテストが開催されるのは、それから7年が経った1984年。記念すべき第1回の“スラムダンク・チャンピオンシップ”は、1976年のABA開催時と同じくデンバーの地で行なわれた。

 参加選手はドミニク・ウィルキンス、ラリー・ナンス、ルーキーのラルフ・サンプソンとクライド・ドレクスラー、そして8年ぶりの参加となったドクターJら総勢9人。33歳になったドクターJの髪には白いものが混じり、月日の流れを感じさせた。ドクターJの名前がアナウンスされると、観客はスタンディングオベーションとこの日一番の歓声で出迎えた。

 決勝に駒を進めたのは、リバースのウインドミルを効果的に用いたナンスと、元祖ダンク王のドクターJ。ドクターJは2本目を失敗してしまい、最後に十八番のレーンアップを披露したが、ミスを取り戻すには至らなかった。
 

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