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NBA

ドクターJ、ドミニク、ジョーダン、カーター……多くのスターが伝説を残したスラムダンク・コンテストの歴史

大井成義

2020.02.15

85、90年の覇者ウィルキンスは、ボースハンドのウインドミルのほか、ダブルクラッチのリバースや、ボードにぶつけたボールを空中で掴んで決める一撃など、そのすべてがリングを破壊しかねないほど迫力に満ちたパワー系ダンカーだった。(C)Getty Images

85、90年の覇者ウィルキンスは、ボースハンドのウインドミルのほか、ダブルクラッチのリバースや、ボードにぶつけたボールを空中で掴んで決める一撃など、そのすべてがリングを破壊しかねないほど迫力に満ちたパワー系ダンカーだった。(C)Getty Images

 栄えある初代NBAダンク王はナンスに決定する。3位には強烈なパワーダンクで会場を沸かせた“ヒューマン・ハイライトフィルム”ことドミニクが食い込んだ。彼はこの後数年に渡り、ダンクコンテストの主役の1人を務めることになる。

 翌1985年はドミニクが、初代王者のナンスやドクターJを抑えて決勝ラウンドに進出。優勝を懸けて争った相手は、ルーキーセンセーション、マイケル・ジョーダンだった。若さゆえか、太めの金のネックレスを首に巻いての出場である。決勝で3本中2本の50点満点を叩き出したドミニクが勝利を掴んだ。

 1986年はジョーダンが足の骨折のため欠場。2連覇を狙って出場したドミニクだったが、身長170㎝のスパッド・ウェッブが会場を沸かせ、王座を勝ち取った。ウェッブは史上最低身長のダンク王となっている。翌1987年はドミニクがケガで参加を見送り、ジョーダンが初優勝。

 そして迎えた1988年、シカゴで開催されたダンクコンテストで、ドミニクvsジョーダンの頂上決戦が実現する。この2人のうちのどちらかが、リーグのベストダンカーであることに疑問の余地はなかった。2回目の優勝を狙ったウェッブは、1回戦で敗退している。

 これ以上ない盛り上がりのなかで行なわれた決勝ラウンド、3本勝負で2本を終え、ドミニクが3本目に48点以上を出せば優勝が確定。勝負は決したと思われた。ところが、3本目はこの日最低の45点。今度はジョーダンが最終3本目に49点以上で逆転優勝。レーンアップで勝負に出るも失敗(1回の失敗は許されていた)。2回目に成功を収め、見事逆転優勝を果たす。
 
 地元シカゴでライバルを倒し、連覇を達成したジョーダンは、リーグ№1ダンカーの座を獲得した。ドミニクとジョーダンが、意地とプライドを賭けて戦った世紀の一戦。会場の盛り上がりや試技の密度、そしてドラマ性や歴史的な観点から、史上最高のダンクコンテストとされている。

 ジョーダンは翌年以降コンテストに出場することはなく、数年間に渡り大きな話題と興奮をもたらした2人のライバル物語は静かに幕を閉じた。それと同時に、ダンクコンテストの第一次黄金期も終焉を迎えたのだった。

■ダンクコンテストを救ったカーターの衝撃的な一撃

 ドクターJやドミニク、ジョーダンといった人気選手が舞台から降りて以降は、ショーン・ケンプやアイザイア・ライダー、ハロルド・マイナーなど傑出したダンカーが何人か出現し、それなりに盛り上がる年はあったものの、1980年代の熱気が長期に渡って蘇ることはなかった。

 そして1998年、ついにダンクコンテストの開催が見送られるという事態に。ダンクコンテストはもう役割を終えたのだろうか、そう人々が懐疑的になりはじめていたその時、風向きを変える歴史的な出来事が起きる。

 2000年のダンクコンテストにおいて、ダンク史に燦然と輝く超弩級の一発が披露されたのだった。ヴィンス・カーターがぶちかましたリバースの360ウインドミル。その衝撃的な一撃により、ダンクコンテストは再び息を吹き返す。土壇場で救世主が現われたのである。
 

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