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NBA

NBA史上最強のPFダンカン、歴代最高クラスの司令塔ポールを輩出したウェイクフォレスト大は実績以上の存在感を醸し出す【名門カレッジ史】

出野哲也

2020.03.09

サイズに恵まれなかったボーグス(中央)だが、スピードを武器にNBAで活躍し低身長選手の希望の星に。(C)Getty Images

サイズに恵まれなかったボーグス(中央)だが、スピードを武器にNBAで活躍し低身長選手の希望の星に。(C)Getty Images

 パッカーはプロの道に進まず、母校のアシスタントコーチを経て解説者に転身。1988年には放送界への貢献を認められ、ウェイクフォレスト大出身者として初の殿堂入りを果たしている。ただ、アレン・アイバーソン(元シクサーズほか)を“猿”呼ばわりするなど、過激な発言が問題視されることもあった。

 1966~72年は、のちにGMとしてデトロイト・ピストンズの“バッドボーイズ”を作り上げるジャック・マクロスキーがHCを務めたが、この間トーナメント進出はなし。15年ぶりの出場となった1977年は、ベスト8まで駒を進めた。

 この時のメンバーだったフランク・ジョンソンは、1980年代前半にワシントン・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)の主力としてプレーし、フェニックス・サンズ時代の1993年にはファイナルに出場。引退後は指導者となり、2002年からは古巣サンズで指揮官を務めた。
 
 1984 年に準々決勝まで進んだ際のメンバーだったマグジー・ボーグスは、1987年のドラフト12位でブレッツに入団。身長160cmはリーグ史上最小で、当時は客寄せのために指名したのではという声もあった。

 しかし、サイズを逆手に取ったスピードと敏捷性を武器に、14年間にわたりNBAで活躍。アシスト能力に優れ、史上23位となる通算6726本を積み上げたほか、シャーロット・ホーネッツ時代の1990年にキャリアハイの平均10.7本、1994年にはリーグ2位となる10.1本をマーク。さらに歴代62位タイの1369スティールと守備でも力を発揮し、世界中の低身長選手たちの希望の星となった。

 1985~90年は成績が振るわなかったが、1991年からは7年連続でトーナメント出場を果たす。最初の3年間で主力を務めたロドニー・ロジャースは、1993年のドラフト9位でデンバー・ナゲッツに入団。サンズに在籍していた2000年にシックスマン賞に輝いたほか、通算866試合出場はウェイクフォレスト大の出身者で4番目に多い数字だった。

 ロジャースがチームを去った1993年、入れ替わりで入学したのがティム・ダンカンだ。同大OBのクリス・キング(元バンクーバー/現メンフィス・グリズリーズほか)が、彼の生まれ故郷であるアメリカ領バージン諸島を訪れた際にその才能に一目惚れし、当時のHCだったデイブ・オドムに「アロンゾ・モーニング(元マイアミ・ヒートほか)と向こうを張れる16歳がいた」と伝えたのが入学のきっかけとなった。
 
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