その甲斐あって、渡米を決めた2006年の夏には、強豪パナシナイコスの一員として国内2冠を達成。さらに世界選手権でも、アメリカを破った準決勝戦で22得点をあげるなど、世界的にその名を知らしめる存在になっていた。
そんな上昇気流の真っ只中、アメリカに乗り込んだ彼のなかにあった思いはひとつ。「自分の持てる才を、NBAの舞台で発揮したい」ということだった。
ところがいざ開幕を迎えてみると、24歳のルーキーにはほんの数分間コートに送り出される以外、ベンチを温める日々が待っていた。当時ロケッツのバックコートを引っ張っていたのは、チームの絶対的エースである“T-mac”ことトレイシー・マッグレディ。控えにはルーサー・ヘッドもいた。
11月下旬、カーク・スナイダーが負傷するとチャンスが訪れる。17分間プレーした22日のワシントン・ウィザーズ戦では、自己最高の出来となる10得点、3アシストをマークした。
「試合に出られないシチュエーションには慣れていないから辛いけれど、チームをサポートして勝利に貢献することも学んでいる」
そう心境を吐露したスパノーリスに対し、周囲も「ここからか」と期待をかける。しかし20日~12月14日まで12試合連続でプレーしたのを最後に、以降はまた1週間に一度コートに立つか立たないか、という状況に逆戻りした。
アメリカでは“ビリー”と呼ばれていたスパノーリスが、ギリシャのメディアに胸のうちを明かしたのは、年が明けた頃だった。
「ここでは、自分の持ち味を出させてもらえていない。これまでプレーした試合でも“自分の力が出しきれた”と感じられたゲームは一度もなかった。コーチはスポットシューターのような役割を自分に期待している。しかしそれは“医者に弁護士になれ”と言っているようなものだ。成長するために頑張りたいが、試合に出られなければその機会もない。まるで監獄に入れられているようだ」
そして、「自分の活躍を楽しみにしてくれているギリシャやヨーロッパ中のファンのために、ここを去ることも視野に入れている」と話した。
そんな上昇気流の真っ只中、アメリカに乗り込んだ彼のなかにあった思いはひとつ。「自分の持てる才を、NBAの舞台で発揮したい」ということだった。
ところがいざ開幕を迎えてみると、24歳のルーキーにはほんの数分間コートに送り出される以外、ベンチを温める日々が待っていた。当時ロケッツのバックコートを引っ張っていたのは、チームの絶対的エースである“T-mac”ことトレイシー・マッグレディ。控えにはルーサー・ヘッドもいた。
11月下旬、カーク・スナイダーが負傷するとチャンスが訪れる。17分間プレーした22日のワシントン・ウィザーズ戦では、自己最高の出来となる10得点、3アシストをマークした。
「試合に出られないシチュエーションには慣れていないから辛いけれど、チームをサポートして勝利に貢献することも学んでいる」
そう心境を吐露したスパノーリスに対し、周囲も「ここからか」と期待をかける。しかし20日~12月14日まで12試合連続でプレーしたのを最後に、以降はまた1週間に一度コートに立つか立たないか、という状況に逆戻りした。
アメリカでは“ビリー”と呼ばれていたスパノーリスが、ギリシャのメディアに胸のうちを明かしたのは、年が明けた頃だった。
「ここでは、自分の持ち味を出させてもらえていない。これまでプレーした試合でも“自分の力が出しきれた”と感じられたゲームは一度もなかった。コーチはスポットシューターのような役割を自分に期待している。しかしそれは“医者に弁護士になれ”と言っているようなものだ。成長するために頑張りたいが、試合に出られなければその機会もない。まるで監獄に入れられているようだ」
そして、「自分の活躍を楽しみにしてくれているギリシャやヨーロッパ中のファンのために、ここを去ることも視野に入れている」と話した。