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NBA

バードも認めた「欧州のスナイパー」ヤシケビシャスがNBAで犯した“ふたつの過ち”

小川由紀子

2020.06.29

 そんななか、ダメ元で参加した学生のオールスターゲームでMVP級の活躍を披露し、最終的にメリーランド大入りが決まる。しかし最初の2年はほとんど出番がなく、転校も考えていた3年時にガードのポジションに空きができたことで、ようやくスターティングメンバー入りを果たした。

 だが試合を重ねるうちに、コーチ陣から「スピードとアスレチック能力に欠けている」と指摘され、また彼自身もリトアニアでは対戦したことのなかった強靭な選手たちと対面し、自身の限界を感じていた。

 ひたすらジムに通い筋力トレーニングに励んだ結果、故郷で「ステロイド注射を打ったのではないか?」と書かれるほど体型が変わったが、それと引き換えにキレを失い、天性のバスケ勘も失われていった。恐怖を感じたヤシケビシャスは、その時「自分はNBAプレーヤーにはなれないと悟った」と、自著『To win is not enough. My life, My basketball』に記している。
 
 ドラフト指名は期待していなかったため、エージェントを雇い所属先を探してはいたものの、彼のようなタイプの選手を欲しがるチームがないことは自覚していた。と同時に、アメリカでプレーした5年間を顧みて「自分にとってのバスケットボールは、1オン1での勝利を至上とするものではない」という点に気づいたこともあり、また1から競技と向き合う思いで、ヤシケビシャスはヨーロッパに戻ることを決める。しかしそのとき彼の胸にあったのは“夢破れて”ではなく“自分をより高めてまた帰ってくる”、そんな思いだった。

 帰国後は母国のリエトゥーボから徐々にステップアップし、2003年夏にはバルセロナでユーロリーグ優勝、さらにユーロバスケットでリトアニアを金メダルに導くなど、クラブと代表の両方で欧州の頂点を極める。そしてこの時、ユーロバスケットの会場で彼を観察していたのが、インディアナ・ペイサーズのフロント職に就いていたラリー・バードだった。

 ユーロバスケット制覇後はイスラエルのマッカビ・テルアビブでも2年連続のユーロリーグ優勝を飾り、その間の2004年に行なわれたアテネ五輪では、グループリーグでティム・ダンカン(元サンアントニオ・スパーズ)らがいたアメリカ代表を破る大番狂わせを演じる。その試合でゲームハイの28得点をあげたヤシケビシャスは、トッププレーヤーへの階段を猛スピードで駆け上がっていた。
 

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