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NBA

バードも認めた「欧州のスナイパー」ヤシケビシャスがNBAで犯した“ふたつの過ち”

小川由紀子

2020.06.29

 ペイサーズは2004年にピストンズ戦で世紀の大乱闘事件を起こしていたが、ヤシケビシャスが加入した2005年もチームの雰囲気は良好ではなく、エゴ剝き出しの選手たちに対してカーライルHCの統率力もまったく及んでいなかった。ティンズリーは飲酒した上にビーチサンダル姿で練習に現われると、「家に帰れ」と命じたカーライルHCに対し「お前が帰れ」と言い返す有様。また、ロン・アーテスト(現メッタ・サンディフォード・アーテスト)はタイムアウト中に「あんたがやりたいバスケットボールは俺にはできない。今日すぐに俺をトレードしろ!」とコーチを恫喝することもあった。2005-06シーズンのプレーオフ出場は奇跡的であり、崩壊はすでに始まっていたのだ。

 そんな状況だったから、2007年1月にゴールデンステート・ウォリアーズへのトレードを言い渡された時は、むしろ違う環境に行けることを喜んだ。ところが新天地に着くなりドン・ネルソンHCに「君はどんな選手なんだ?」と聞かれ、ヤシケビシャスは自分の運命を悟った。
 
 NBAではソフォモア(2年目)とはいえ、すでに欧州では立派なキャリアを築いた30歳のプレーヤー。しかもネルソンHCの息子ドニーは、リトアニア代表のアシスタントコーチを14年間務め、ヤシケビシャスの成長を身近で見てきた存在だった。

 そして指揮官はさらに念を押す。

「正直に言っておく。ポイントガードにはバロン・デイビスがいて、控えにはモンテイ・エリスを育てるつもりだ。君には、2人が使えない時に出てもらう」

 ウォリアーズでは26試合の出場で平均4.3点にとどまったが、それでもネルソンHCから一定の評価を得たヤシケビシャスは、もう1年残った契約を全うするつもりでユーロバスケットに出場すべく欧州へ戻る。ハリウッドでのキャリアを模索していた元ミス・ワールドの妻も、アメリカに残ることを希望していた。

 その間、代理人の下へはいくつかの移籍話が届いていた。NBAで彼に興味を示していたのは、グレッグ・ポポビッチHC率いるスパーズ。ヨーロッパでは、ギリシャのオリンピアコスとロシアのCSKAモスクワが、好待遇のオファーを提示していた。
 

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