NBA行きのチャンスが訪れたのは、その時だった。
ちょうどフリーエージェントになっていた2005年夏、バードが直々に観て惚れ込んだペイサーズだけでなく、ユタ・ジャズやポートランド・トレイルブレイザーズ、クリーブランド・キャバリアーズも獲得に興味を示したのだ。
勝利を重ね続けていたその時のヤシケビシャスにとっては“勝てるチームであること”が入団の最優先事項だった。当時毎年プレーオフに出場していたペイサーズと、レブロン・ジェームズや同胞のジードルナス・イルガスカスがいるキャブスで迷った結果、イスラエルまで口説きにきたバードの熱意に応えることを決めた。
ペイサーズはちょうどその夏、長年フランチャイズを牽引したレジー・ミラーが引退し、クラッチプレーヤーだった彼の穴を埋められるシューターを求めていた。国際大会や欧州のコンペティションで、幾度となくラストショットを放つ勇敢さを見せつけてきたヤシケビシャスこそその存在になれると、バードやHCのリック・カーライルは期待していたのだ。
しかし、ここでヤシケビシャスは失敗を犯してしまう。
3年連続のユーロリーグ優勝、夏には国際トーナメントと休みなく走り続けてきた彼は、新天地に挑戦する前に心身ともにエネルギーを充填すべく長期休暇を取った。結果的に英気は養えたものの、ボールから遠ざかっていた期間の長さは、シーズン開始直後から本人に危機感を抱かせるほどコンディションを鈍らせていた。
さらに、オフの間に観に行ったU2のコンサートで、熱狂してジャンプした際にヒザを負傷するというジョークのような災難にも見舞われる。幸いそこでまで深刻なケガではなかったが、開幕時のコンディションは同じポジションを競うジャマール・ティンズリーに到底及ばず。NBA挑戦1年目は75試合(うち先発15試合)に出場し、平均20.8分のプレータイムで7.3点、3.0アシストの成績にとどまった。
そしてヤシケビシャスにとってもうひとつの、そして最大の失敗は、数ある選択肢のなかでペイサーズを選んだことだった。
ちょうどフリーエージェントになっていた2005年夏、バードが直々に観て惚れ込んだペイサーズだけでなく、ユタ・ジャズやポートランド・トレイルブレイザーズ、クリーブランド・キャバリアーズも獲得に興味を示したのだ。
勝利を重ね続けていたその時のヤシケビシャスにとっては“勝てるチームであること”が入団の最優先事項だった。当時毎年プレーオフに出場していたペイサーズと、レブロン・ジェームズや同胞のジードルナス・イルガスカスがいるキャブスで迷った結果、イスラエルまで口説きにきたバードの熱意に応えることを決めた。
ペイサーズはちょうどその夏、長年フランチャイズを牽引したレジー・ミラーが引退し、クラッチプレーヤーだった彼の穴を埋められるシューターを求めていた。国際大会や欧州のコンペティションで、幾度となくラストショットを放つ勇敢さを見せつけてきたヤシケビシャスこそその存在になれると、バードやHCのリック・カーライルは期待していたのだ。
しかし、ここでヤシケビシャスは失敗を犯してしまう。
3年連続のユーロリーグ優勝、夏には国際トーナメントと休みなく走り続けてきた彼は、新天地に挑戦する前に心身ともにエネルギーを充填すべく長期休暇を取った。結果的に英気は養えたものの、ボールから遠ざかっていた期間の長さは、シーズン開始直後から本人に危機感を抱かせるほどコンディションを鈍らせていた。
さらに、オフの間に観に行ったU2のコンサートで、熱狂してジャンプした際にヒザを負傷するというジョークのような災難にも見舞われる。幸いそこでまで深刻なケガではなかったが、開幕時のコンディションは同じポジションを競うジャマール・ティンズリーに到底及ばず。NBA挑戦1年目は75試合(うち先発15試合)に出場し、平均20.8分のプレータイムで7.3点、3.0アシストの成績にとどまった。
そしてヤシケビシャスにとってもうひとつの、そして最大の失敗は、数ある選択肢のなかでペイサーズを選んだことだった。