48年にロチェスター・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)に入団したセンターのアーニー・ライゼンは、オールスターに4度選出。ロイヤルズ、ボストン・セルティックスでそれぞれ1回ずつ優勝し、98年にはバスケットボール殿堂入りも果たしている。
■ハブリチェックらを擁し60年に初の全米制覇を果たす
50年代に入って低迷していたOSUは、58年にOBのフレッド・テイラーがHCに就任し復活を遂げる。60年はジェリー・ルーカス、ジョン・ハブリチェックの2年生コンビやラリー・ジークフリートを中心に、トーナメントでは全試合で相手に17点以上の差をつける圧倒的な強さで初の全米制覇を達成。インディアナ大の名物HCとして知られるボブ・ナイトも、優勝メンバーの1人だった。
ルーカスとハブリチェックは61、62年もチームに残り、2年連続で決勝に進んだが、両年とも同州のライバル校、シンシナティ大の前に敗れ去った。
62年のドラフト7位でセルティックス入りしたハブリチェックは、66年から13年連続でオールスターに選出。ビル・ラッセルの引退後は大黒柱を務め、通算で8個のチャンピオンリングを手にした。フィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦した65年のイースタン・カンファレンス決勝の最終戦、試合時間残り5秒で決めたチームを救うスティールは、NBA史上屈指の名シーンに数えられている。61年にロイヤルズから3位指名を受けたジークフリートは、入団を拒否してマイナーリーグでプレーしたのち、63年にハブリチェックのいるセルティックスと契約。粘り強い守備とシュート力に定評があり、66、69年にフリースロー成功率でリーグトップに立っている。
独特なシュートフォームで有名だったルーカスは、在学中の60年にローマ五輪で金メダルを獲得。代表チームを率いたピート・ニューエルHCに「あれほどアンセルフィッシュな選手を見たことがない」と言われたほど献身的なプレーヤーだった。62年にはテリトリアル・ピック(地域優先指名)でロイヤルズに指名され、翌年に入団。65、66年には2年続けて平均20点、20リバウンドをマークし、73年にニューヨーク・ニックスで優勝を経験した。
■ハブリチェックらを擁し60年に初の全米制覇を果たす
50年代に入って低迷していたOSUは、58年にOBのフレッド・テイラーがHCに就任し復活を遂げる。60年はジェリー・ルーカス、ジョン・ハブリチェックの2年生コンビやラリー・ジークフリートを中心に、トーナメントでは全試合で相手に17点以上の差をつける圧倒的な強さで初の全米制覇を達成。インディアナ大の名物HCとして知られるボブ・ナイトも、優勝メンバーの1人だった。
ルーカスとハブリチェックは61、62年もチームに残り、2年連続で決勝に進んだが、両年とも同州のライバル校、シンシナティ大の前に敗れ去った。
62年のドラフト7位でセルティックス入りしたハブリチェックは、66年から13年連続でオールスターに選出。ビル・ラッセルの引退後は大黒柱を務め、通算で8個のチャンピオンリングを手にした。フィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦した65年のイースタン・カンファレンス決勝の最終戦、試合時間残り5秒で決めたチームを救うスティールは、NBA史上屈指の名シーンに数えられている。61年にロイヤルズから3位指名を受けたジークフリートは、入団を拒否してマイナーリーグでプレーしたのち、63年にハブリチェックのいるセルティックスと契約。粘り強い守備とシュート力に定評があり、66、69年にフリースロー成功率でリーグトップに立っている。
独特なシュートフォームで有名だったルーカスは、在学中の60年にローマ五輪で金メダルを獲得。代表チームを率いたピート・ニューエルHCに「あれほどアンセルフィッシュな選手を見たことがない」と言われたほど献身的なプレーヤーだった。62年にはテリトリアル・ピック(地域優先指名)でロイヤルズに指名され、翌年に入団。65、66年には2年続けて平均20点、20リバウンドをマークし、73年にニューヨーク・ニックスで優勝を経験した。
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