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NBA

現在の制度ならレブロンの母校となっていた?創部100年以上の歴史を誇るオハイオ州大の歴史【名門カレッジ史】

出野哲也

2020.10.30

 76年を最後にテイラーが退任すると、以降20 年間でトーナメント出場は8回、ファイナル4進出はゼロと以前ほどの強さは失われたが、この間もNBA選手を数名輩出した。インディアナ・ペイサーズなどで活躍したビッグマンのハーブ・ウィリアムズは、同大出身者ではハブリチェックに次ぐ1102試合に出場。クラーク・ケロッグも同じくペイサーズに入団し、1年目から平均20.1点。将来を嘱望されたが、ヒザのケガにより25歳でNBAキャリアを終えている。

 4年間で学校記録の通算2096点を積み重ねたデニス・ホプソンは、87年にドラフト3位でニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツ入り。NBA生活は5年と短かったが、その後長く海外リーグでプレーした。トニー・キャンベルは球団創設間もないミネソタ・ティンバーウルブズでエースとして活躍。92年にドラフト4位でダラス・マーベリックスに入団したジム・ジャクソンは、3年目の95年に平均25.7点をマーク。しかしその後は伸び悩み、12球団を渡り歩くジャーニーマンのキャリアを送った。
 
 86年のドラフト9位でシカゴ・ブルズに入団したブラッド・セラーズは、選手としては大成しなかったものの、現在は生まれ故郷のオハイオ州ウォレンズビルハイツで市長(3期目)を務めている。セラーズがブルズを退団した89-90シーズン、入れ替わりにアシスタントコーチとしてやって来たジム・クレモンズもOSU出身。NBA入りした最初の年、72年にレイカーズで優勝を経験し、コーチとしてもフィル・ジャクソンの下、ブルズで4回、レイカーズで5回頂点を味わった。

■未完の大器のままリーグを去ったOSU史上初のドラ1オーデン

 97年にジム・オブライエン(元ペイサーズのHCとは別人)が指揮官に就任。初年度はカンファレンス最下位に沈むも、翌99年はマイケル・レッド、スクーニー・ペンを中心に31年ぶりにファイナル4まで勝ち進んだ。ところが当時のメンバーの1人、ボバン・サボビッチへの不正リクルートが発覚。サボビッチが出場した1998 ~2002年の試合記録はすべて抹消となり、オブライエンも04年に解任された。
 
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