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東京五輪

バスケ日本代表が4勝をあげて「国際的に一歩踏み出せた」1964年東京五輪。再び奇跡を起こせるか【五輪史探訪】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2021.07.14

■大会6連覇を果たしたアメリカ。その後政界進出したメンバーも

 開会式から一夜明けた10月11日、代々木体育館で競技は始まった。アメリカ代表は5戦目のユーゴスラビアに69-61と若干苦戦した以外、大して問題もなく7戦全勝で予選を通過。準決勝のプエルトリコ戦も、16得点を稼いだブラッドリーの活躍で快勝を収めた。

 開幕前の予想通り、決勝の相手は同じく予選全勝のソビエト連邦(ソ連)。身長208センチのアレクサンドル・ペトロフを中心とした侮れないチームだったが、そのペトロフがファウルトラブルに陥った隙に乗じ、アメリカは得意の速攻から点差を広げる。最終スコアは73-59、見事大会6連覇を果たし、五輪での連勝記録を46まで伸ばした。

 代表最年長であり、大会を通じてチーム最多の112得点を稼いだジェリー・シップにとって、金メダルには他の選手以上の強い思いがあった。

 孤児として苦労しながら育ち、学校の成績も悪かった彼は教師から馬鹿者扱いされ「お前みたいな奴は何者にもなれない。大人になったら刑務所行きだ」などと言われたという。その背景から、表彰式でシップはテレビカメラを直視し、その教師の名を呼んで「観てるか?これが何者にもなれない奴の今の姿だ」と勝ち誇っていた。
 
 優勝メンバーたちはその後、様々なキャリアを送っている。

 ブラッドリーは1965年のドラフトでニューヨーク・ニックスから指名されるもすぐには入団せず、イギリスのオックスフォード大で学びながらイタリアリーグでプレーしたのち、1967年にNBA入り。1970、73年に優勝を経験し、引退後は政界に転身すると、民主党の上院議員を3期務めて大統領候補に推されたこともあった。ブラッドリーを含め、NBA入りした金メダリスト8人のうち、6人はプロでも頂点に立っている。

 また、ノースカロライナ大卒業後は企業チーム(グッドイヤー)に所属していたラリー・ブラウンは、1967年にプロ転向しABA入り。NBAでプレーすることはなかったが、指導者としてカレッジ、NBAの両方で優勝を果たしたほか、2000年のシドニー五輪ではアメリカ代表のアシスタントコーチとして、36年ぶりにオリンピックの舞台に帰ってきた。
 
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