【シューティングガード】
ラトレル・スプリーウェル
1970年9月8日生。196センチ・86キロ
カレッジ成績:68試合、平均13.5点、5.1リバウンド、2.0アシスト
NBA成績:913試合、平均18.3点、4.1リバウンド、4.0アシスト
アラバマ大OBで最高のNBA選手にして、最大のトラブルメーカーでもあった。92年のドラフト24位でゴールデンステイト・ウォリアーズに指名されると、1年目から平均15.4点でオールルーキー2ndチーム入り。翌年はさらに飛躍を遂げ、切れ味鋭いドライブから点を奪いまくって平均21.0点、守備でも2.2スティール。オールディフェンシブ2ndチームのみならずオールNBA、それも1stチームに選ばれた。
まさしく新進気鋭のスター誕生といった趣だったが、気性が激しすぎたのが玉にキズで、チームメイトのティム・ハーダウェイや当時のHCドン・ネルソンと対立。さらに97年には、練習中に口論となったPJ・カーリシモHCの首を絞めるという前代未聞の大事件を起こし、無期限出場停止処分を科される。
これで一気に評判を落としたが、翌年に移籍したニューヨーク・ニックスで再起。99年は第8シードからのファイナル進出という快挙の立役者になって、名誉挽回に成功した。
【スモールフォワード】
デリック・マッキー
1966年10月10日生。206センチ・93キロ
カレッジ成績:99試合、平均12.4点、6.5リバウンド、1.3アシスト
NBA成績:937試合、平均11.0点、4.7リバウンド、2.4アシスト
アラバマ大では2年時の86年に世界選手権(現ワールドカップ)のアメリカ代表に選ばれ、金メダルに貢献。87年はカンファレンスMVPを受賞し、同年のドラフト9位でシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に入団した。2年目には先発SFに定着して平均15.9点をあげたが、積極的に点を取りに行くタイプではなく、得点は結局これがキャリアハイとなった。
一方、守備ではサイズと身体能力の高さを生かして、PG以外の4ポジションをカバー。個人スタッツで上位にランクされることはなくとも、戦術の理解度が高く、チームのために最適なプレーを選択できる有能なロールプレーヤーとして重宝された。
93-94シーズンにデトレフ・シュレンプとの交換でインディアナ・ペイサーズへトレードされてからも、95、96年に2年続けてオールディフェンシブ2ndチームに選出。引退後は自宅のあるインディアナポリスと故郷のミシシッピ州の両方で、地域活動に熱心に携わっている。
ラトレル・スプリーウェル
1970年9月8日生。196センチ・86キロ
カレッジ成績:68試合、平均13.5点、5.1リバウンド、2.0アシスト
NBA成績:913試合、平均18.3点、4.1リバウンド、4.0アシスト
アラバマ大OBで最高のNBA選手にして、最大のトラブルメーカーでもあった。92年のドラフト24位でゴールデンステイト・ウォリアーズに指名されると、1年目から平均15.4点でオールルーキー2ndチーム入り。翌年はさらに飛躍を遂げ、切れ味鋭いドライブから点を奪いまくって平均21.0点、守備でも2.2スティール。オールディフェンシブ2ndチームのみならずオールNBA、それも1stチームに選ばれた。
まさしく新進気鋭のスター誕生といった趣だったが、気性が激しすぎたのが玉にキズで、チームメイトのティム・ハーダウェイや当時のHCドン・ネルソンと対立。さらに97年には、練習中に口論となったPJ・カーリシモHCの首を絞めるという前代未聞の大事件を起こし、無期限出場停止処分を科される。
これで一気に評判を落としたが、翌年に移籍したニューヨーク・ニックスで再起。99年は第8シードからのファイナル進出という快挙の立役者になって、名誉挽回に成功した。
【スモールフォワード】
デリック・マッキー
1966年10月10日生。206センチ・93キロ
カレッジ成績:99試合、平均12.4点、6.5リバウンド、1.3アシスト
NBA成績:937試合、平均11.0点、4.7リバウンド、2.4アシスト
アラバマ大では2年時の86年に世界選手権(現ワールドカップ)のアメリカ代表に選ばれ、金メダルに貢献。87年はカンファレンスMVPを受賞し、同年のドラフト9位でシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に入団した。2年目には先発SFに定着して平均15.9点をあげたが、積極的に点を取りに行くタイプではなく、得点は結局これがキャリアハイとなった。
一方、守備ではサイズと身体能力の高さを生かして、PG以外の4ポジションをカバー。個人スタッツで上位にランクされることはなくとも、戦術の理解度が高く、チームのために最適なプレーを選択できる有能なロールプレーヤーとして重宝された。
93-94シーズンにデトレフ・シュレンプとの交換でインディアナ・ペイサーズへトレードされてからも、95、96年に2年続けてオールディフェンシブ2ndチームに選出。引退後は自宅のあるインディアナポリスと故郷のミシシッピ州の両方で、地域活動に熱心に携わっている。