【シューティングガード】
ケリー・キトルズ
1974年6月12日生。196cm・81kg
カレッジ成績:122試合、平均18.4点、5.9リバウンド、3.3アシスト
NBA成績:507試合、平均14.1点、3.9リバウンド、2.6アシスト
ビラノバ大には4年間通い、通算2243得点で歴代最多記録を保持。96年にはポール・アリジン以来、46年ぶりとなるオールアメリカン1stチームに選出された。
同年のドラフト8位でニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツに入団。この年は史上屈指の豊作年で、コビー・ブライアント(ドラフト13位)やスティーブ・ナッシュ(同15位)らのちのMVPより上位での指名だった。細身のスタイリッシュな選手で、ルーキーイヤーは平均16.4点、翌年も17.2点を記録。守備でもタイミング良くスティールを奪い、期待通り成長しているように思えたが、3年目からヒザの痛みに悩まされはじめ、4度も手術を重ねた挙げ句2000-01シーズンは全休してしまう。
復帰後はジェイソン・キッド(現ダラス・マーベリックスHC)が加入したチームの堅実な3番手として、02、03年に2年続けてのファイナル進出に貢献した。ロサンゼルス・クリッパーズで過ごした04-05シーズンを最後に30歳でプロ生活に見切りをつけ、その直後にビラノバ大に復学してMBAを取得。16~18年にはプリンストン大のアシスタントコーチを務めた。
【スモールフォワード】
ポール・アリジン
1928年4月9日生(2006年12月12日没)。193cm・86kg
カレッジ成績:80試合、平均20.0点
NBA成績:713試合、平均22.8点、8.6リバウンド、2.3アシスト
現役のミカル・ブリッジス(フェニックス・サンズ)も好選手だが、ビラノバ大出身者で唯一の殿堂入り選手には及ばない。高校時代はチーム入りできない程度の存在だったものの、偶然のきっかけで、当時は誰も試みていなかったジャンプショットを体得。大学時代には1試合85点を叩き出す怪物レベルへ飛躍した。
フィラデルフィア出身であり、50年のドラフトではテリトリアル・ピック(地域優先指名)で地元ウォリアーズ(現在の本拠はゴールデンステイト)に入団、新人王に輝く。2年目は総得点1674で得点王、平均25.4点も1位。その後2年間は朝鮮戦争中とあって海兵隊に入隊していたが、除隊後の56年ファイナルでは平均27.6点でチームを優勝に導いた。チーム2番目の高得点だったトム・ゴーラ(13.8点)のちょうど2倍で、いかに圧倒的な存在だったかがわかる。
56-57シーズンは1817点/平均25.6点で2度目の得点王に。キャリア10年間で毎年オールスターに選ばれ、1年目を除いて平均得点はすべて20点以上という、NBA初期を代表するスターの1人だった。
ケリー・キトルズ
1974年6月12日生。196cm・81kg
カレッジ成績:122試合、平均18.4点、5.9リバウンド、3.3アシスト
NBA成績:507試合、平均14.1点、3.9リバウンド、2.6アシスト
ビラノバ大には4年間通い、通算2243得点で歴代最多記録を保持。96年にはポール・アリジン以来、46年ぶりとなるオールアメリカン1stチームに選出された。
同年のドラフト8位でニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツに入団。この年は史上屈指の豊作年で、コビー・ブライアント(ドラフト13位)やスティーブ・ナッシュ(同15位)らのちのMVPより上位での指名だった。細身のスタイリッシュな選手で、ルーキーイヤーは平均16.4点、翌年も17.2点を記録。守備でもタイミング良くスティールを奪い、期待通り成長しているように思えたが、3年目からヒザの痛みに悩まされはじめ、4度も手術を重ねた挙げ句2000-01シーズンは全休してしまう。
復帰後はジェイソン・キッド(現ダラス・マーベリックスHC)が加入したチームの堅実な3番手として、02、03年に2年続けてのファイナル進出に貢献した。ロサンゼルス・クリッパーズで過ごした04-05シーズンを最後に30歳でプロ生活に見切りをつけ、その直後にビラノバ大に復学してMBAを取得。16~18年にはプリンストン大のアシスタントコーチを務めた。
【スモールフォワード】
ポール・アリジン
1928年4月9日生(2006年12月12日没)。193cm・86kg
カレッジ成績:80試合、平均20.0点
NBA成績:713試合、平均22.8点、8.6リバウンド、2.3アシスト
現役のミカル・ブリッジス(フェニックス・サンズ)も好選手だが、ビラノバ大出身者で唯一の殿堂入り選手には及ばない。高校時代はチーム入りできない程度の存在だったものの、偶然のきっかけで、当時は誰も試みていなかったジャンプショットを体得。大学時代には1試合85点を叩き出す怪物レベルへ飛躍した。
フィラデルフィア出身であり、50年のドラフトではテリトリアル・ピック(地域優先指名)で地元ウォリアーズ(現在の本拠はゴールデンステイト)に入団、新人王に輝く。2年目は総得点1674で得点王、平均25.4点も1位。その後2年間は朝鮮戦争中とあって海兵隊に入隊していたが、除隊後の56年ファイナルでは平均27.6点でチームを優勝に導いた。チーム2番目の高得点だったトム・ゴーラ(13.8点)のちょうど2倍で、いかに圧倒的な存在だったかがわかる。
56-57シーズンは1817点/平均25.6点で2度目の得点王に。キャリア10年間で毎年オールスターに選ばれ、1年目を除いて平均得点はすべて20点以上という、NBA初期を代表するスターの1人だった。