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NBA

【NBAスター悲話】ドラゼン・ペトロビッチ――非業の死を遂げた欧州出身プレーヤーの父【後編】

大井成義

2019.12.07

 そんな彼にできる唯一のこと、それはバスケットボールを続けることだった。自分の活躍が祖国の人々の励みとなるならばと、ペトロビッチはナショナルチームの試合を疎かにすることは決してなかった。実際、ペトロビッチは国際試合にめっぽう強く、ユーゴスラビアとクロアチア代表の時代を合わせて、オリンピックで銀2個、銅1個、世界選手権で金1個、銅1個、ユーロバスケットで金1個、銅1個と数多くのメダル獲得に貢献している。

 1992年のバルセロナ・オリンピックでは、ジョーダン擁するドリームチームと2度対戦し、世界中の注目を浴びた。予選ラウンドで19得点をあげ、2度目の対戦となった決勝でも敗れて銀メダルに終わったものの、両チーム中最多得点となる24点をマーク。ジョーダンと激しいバトルを繰り広げるなど、その存在感を存分に見せつけた。

 1993年6月、クロアチア・ナショナルチームが参加するユーロバスケットの予選に出場するため、ペトロビッチはネッツ側の要請を無視する形でヨーロッパに戻った。ペトロビッチとの再契約をなんとしてでも結ぼうと考えていたネッツは、ケガをしていた踵を治癒させるため、また戦時下での危険を避けさせる意味でも帰省には反対だった。
 
 クロアチア側も、ペトロビッチ抜きで予選は十分通過できる以上、彼をあまり必要とはしておらず、ユーロバスケット本戦に備えて休養を取るべき、そう考える関係者も少なくなかった。しかし、周囲の反対をよそに彼は祖国に戻った。

 帰国の直前、ウィリアムズは尋ねている。なぜ戦時下という危険極まりない場所に戻るのか、と。ペトロビッチは「俺の祖国だから」、そう答える以外何も言わなかった。ペトロビッチにとって、たとえ戦時下であっても、心休まる場所は祖国クロアチア以外になかった。そして何より、戦争で疲弊しているクロアチアの人々に、バスケットボールを通して勇気と束の間の喜びを与えたかった。

 ユーロバスケット予選はポーランドで行なわれた。全勝で勝ち進んだクロアチアは決勝でスロベニアと対戦し、ペトロビッチは30得点をマークしたが、90対94で敗れる。それでも、クロアチアはドイツで開催される本戦出場を決めた。それが、ペトロビッチにとって人生最後の試合となった。
 

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