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【NBAスター悲話】ドラゼン・ペトロビッチ――非業の死を遂げた欧州出身プレーヤーの父【後編】

大井成義

2019.12.07

 ネッツ時代のチームメイトだったサム・ブーイが、ペトロビッチにある日尋ねたそうである。

「あれほどタフな状況で、どうやったらあんな凄いクラッチシュートが打てるんだ?」

 すると彼はこう答えたという。

「サム、あんなのは厳しい状況でもなんでもない。本当にタフな状況というのは、故郷の家族と電話で話していて、戦争に巻き込まれた知り合いの死を伝えられた時だよ」

 1995年11月、クロアチアとセルビアの間に和平協定が結ばれる。平和を取り戻した祖国の姿を、ペトロビッチが目にすることはついぞなかった。
 
 太く短い人生をペトロビッチは全力で駆け抜け、そして散った。無限の可能性を秘めながら。かつてのヘッドコーチ、ビル・フィッチは言う。「我々が見たドラゼンは、まさしく彼の氷山の一角だった」

 強烈な個性と熾烈なプレースタイル。ヨーロッパやNBAで残した数字以上のものを、ペトロビッチは皆の心に置き土産として残していった。事故から5か月後、ネッツはぺトロビッチの背番号3を永久欠番に決定する。さらには、NBAでわずか4年間しかプレーしなかった彼が、2002年、マジック・ジョンソンらとともに殿堂入りを果たしたという事実がすべてを物語っていよう。

 そして何よりも、彼が残した最大の置き土産は、この四半世紀の間に海を渡ってきた数多くのヨーロッパ出身選手だろう。ペトロビッチが架けた橋を、彼らは今渡り続けている。彼らは皆、ペトロビッチの息子なのだ。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2003年4月号掲載原稿に加筆・修正。
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