1993年6月7日、決勝の翌朝、チームは飛行機でクロアチアの首都ザグレブに向かった。ところが、経由地ドイツのフランクフルトで、ペトロビッチは急遽同行を取りやめる。アメリカで知り合ったばかりのガールフレンド(ハンガリー人のバスケットボール選手兼モデル)が、ドイツのミュンヘンに住んでいた。その日同じく移動中だった彼女とフランクフルト空港で落ち合い、そこから車でミュンヘンに行き、2人で時間を過ごしてから実家に帰ろう――。そう考えたペトロビッチは、1人チームを離れたのだった。ポケットにはザグレブまでの搭乗券が入っていたにもかかわらず。
その日の夕方、雨の降りしきるアウトバーンで悲劇は起きた。ペトロビッチと彼のガールフレンド、そしてその友人(ドイツでプレーするトルコ人女性のバスケットボール選手)の3人は、ミュンへンに向かって車を走らせていた。ペトロビッチはカーマニアで優秀なドライバーだったが、フォルクスワーゲン・ゴルフのハンドルを握っていたのはガールフレンドの方だった。
3人を乗せたゴルフは、雨で視界が悪いうえ滑りやすい路面であるにもかかわらず、制限速度のないアウトバーンを凄まじい速度で突っ走っていた。後部座席にいた友人の証言によると、そのスピードは恐怖を感じるほどで、時速180km近く出ていたという。ペトロビッチは助手席でシートベルトを付けずに寝ていた。
突然、反対車線を走行していたトレーラーがコントロールを失い、中央分離帯のガードレールを突き破って、ゴルフが走っていた路線の3車線すべてを塞いだ。衝撃と、大きな事故を起こしてしまったことにトレーラーのドライバーは激しく動揺したが、すぐ気を持ち直して車の外に飛び出すと、走行車がトレーラーの存在に気付くよう、路肩で必死に手を振った。
そこにやって来たのが、猛スピードで走るゴルフだった。ガールフレンドは急ブレーキを踏み、目一杯ハンドルを切ったものの、車はガードレールにぶつかった後トレーラーに突っ込む。シートベルトをしていなかったペトロビッチの身体はフロントガラスを突き破って前方に放り出され、トレーラーの車両前部に激突。即死だった。運転していたガールフレンドは軽症、後部座席の友人は全身と脳にひどい損傷を負った。ペトロビッチが腕にはめていた時計の針は、事故の発生時刻、5時20分を指したまま止まっていた。
ドラゼン・ペトロビッチ、享年28。あまりにも短い人生だった。
その日の夕方、雨の降りしきるアウトバーンで悲劇は起きた。ペトロビッチと彼のガールフレンド、そしてその友人(ドイツでプレーするトルコ人女性のバスケットボール選手)の3人は、ミュンへンに向かって車を走らせていた。ペトロビッチはカーマニアで優秀なドライバーだったが、フォルクスワーゲン・ゴルフのハンドルを握っていたのはガールフレンドの方だった。
3人を乗せたゴルフは、雨で視界が悪いうえ滑りやすい路面であるにもかかわらず、制限速度のないアウトバーンを凄まじい速度で突っ走っていた。後部座席にいた友人の証言によると、そのスピードは恐怖を感じるほどで、時速180km近く出ていたという。ペトロビッチは助手席でシートベルトを付けずに寝ていた。
突然、反対車線を走行していたトレーラーがコントロールを失い、中央分離帯のガードレールを突き破って、ゴルフが走っていた路線の3車線すべてを塞いだ。衝撃と、大きな事故を起こしてしまったことにトレーラーのドライバーは激しく動揺したが、すぐ気を持ち直して車の外に飛び出すと、走行車がトレーラーの存在に気付くよう、路肩で必死に手を振った。
そこにやって来たのが、猛スピードで走るゴルフだった。ガールフレンドは急ブレーキを踏み、目一杯ハンドルを切ったものの、車はガードレールにぶつかった後トレーラーに突っ込む。シートベルトをしていなかったペトロビッチの身体はフロントガラスを突き破って前方に放り出され、トレーラーの車両前部に激突。即死だった。運転していたガールフレンドは軽症、後部座席の友人は全身と脳にひどい損傷を負った。ペトロビッチが腕にはめていた時計の針は、事故の発生時刻、5時20分を指したまま止まっていた。
ドラゼン・ペトロビッチ、享年28。あまりにも短い人生だった。