88、89年はダニー・フェリーが中心となり2年連続でファイナル4進出。88年に1試合58得点の学校記録を樹立、89年にネイスミス賞を受賞したフェリーは、クリッパーズからの2位指名を拒否してイタリアへ渡り、1年後にキャバリアーズでNBA入り。現役時代はロールプレーヤーの域を出なかったが、引退後はスパーズのフロント入り、ホークスでもGMを務めるなど、デューク大出身者らしいキャリアを送った。
90年も決勝戦で涙を飲んだが、翌91年には5回目の挑戦でついに全国制覇を果たす。平均19.8点を稼いだ大黒柱のクリスチャン・レイトナー、有能な司令塔ボビー・ハーリー、そして1年生のグラント・ヒルの3人は、翌92年もチームの中心となって連覇を達成。準々決勝のケンタッキー大戦ではレイトナーがフィールドゴール10本中10本、フリースローも10本中10本決めた上、1点ビハインドのオーバータイム終了間際に逆転ブザービーターをヒットする伝説的なパフォーマンスを披露。決勝のミシガン大戦は20点差をつけて圧勝した。
史上最高のブルーデビルと言われたレイトナーは、同年のバルセロナ五輪ドリームチームにも、学生としてただ1人参加。NBAではホークスなどでまずまずの成績を残した。ハーリーのキャリアは交通事故によって早期に絶たれたが、ヒルはピストンズに入団した94-95シーズンに新人王となり、オールスターのファン投票でも1位になるなど人気を集めた。キャリア中盤では相次いで故障に見舞われるも、40歳まで現役を続け、デューク出身者で最多の通算1万7137点を記録した。
ヒルの最終学年だった94年と、コーリー・マゲッティ、エルトン・ブランド、シェーン・バティエの2年生トリオで勝ち進んだ99年も準優勝。ブランドは99年のドラフト1位でブルズに入団、同年の新人王となる。その後も攻守に堅実なビッグマンとして長くプレーし、通算出場数1058はデューク大出身者で最多となった。マゲッティもNBA入りしたがバティエは大学に残り、4年生となった2001年はマイク・ダンリービー、カルロス・ブーザー、ジェイ・ウィリアムズらの下級生とともに9年ぶりの優勝。プロでもバティエは頭脳的なディフェンス、ダンリービーは3ポイント、ブーザーはインサイドの得点源として活躍したが、4人のうち最も大学時代に注目を集めたウィリアムズだけが成功しなかった。
90年も決勝戦で涙を飲んだが、翌91年には5回目の挑戦でついに全国制覇を果たす。平均19.8点を稼いだ大黒柱のクリスチャン・レイトナー、有能な司令塔ボビー・ハーリー、そして1年生のグラント・ヒルの3人は、翌92年もチームの中心となって連覇を達成。準々決勝のケンタッキー大戦ではレイトナーがフィールドゴール10本中10本、フリースローも10本中10本決めた上、1点ビハインドのオーバータイム終了間際に逆転ブザービーターをヒットする伝説的なパフォーマンスを披露。決勝のミシガン大戦は20点差をつけて圧勝した。
史上最高のブルーデビルと言われたレイトナーは、同年のバルセロナ五輪ドリームチームにも、学生としてただ1人参加。NBAではホークスなどでまずまずの成績を残した。ハーリーのキャリアは交通事故によって早期に絶たれたが、ヒルはピストンズに入団した94-95シーズンに新人王となり、オールスターのファン投票でも1位になるなど人気を集めた。キャリア中盤では相次いで故障に見舞われるも、40歳まで現役を続け、デューク出身者で最多の通算1万7137点を記録した。
ヒルの最終学年だった94年と、コーリー・マゲッティ、エルトン・ブランド、シェーン・バティエの2年生トリオで勝ち進んだ99年も準優勝。ブランドは99年のドラフト1位でブルズに入団、同年の新人王となる。その後も攻守に堅実なビッグマンとして長くプレーし、通算出場数1058はデューク大出身者で最多となった。マゲッティもNBA入りしたがバティエは大学に残り、4年生となった2001年はマイク・ダンリービー、カルロス・ブーザー、ジェイ・ウィリアムズらの下級生とともに9年ぶりの優勝。プロでもバティエは頭脳的なディフェンス、ダンリービーは3ポイント、ブーザーはインサイドの得点源として活躍したが、4人のうち最も大学時代に注目を集めたウィリアムズだけが成功しなかった。