専門5誌オリジナル情報満載のスポーツ総合サイト

  • サッカーダイジェスト
  • WORLD SOCCER DIGEST
  • スマッシュ
  • DUNK SHOT
  • Slugger
NBA

スパーズを常勝軍団へと導いた最強ビッグマン、ティム・ダンカン指名をめぐるドラフト裏話【NBAドラフト史|1997年】

大井成義

2019.12.26

高卒で9位指名されたマッグレディはスターへと成長。自慢の得点力を存分に発揮して、2003、04年には2年連続で得点王に輝いた。(C)Getty Images

高卒で9位指名されたマッグレディはスターへと成長。自慢の得点力を存分に発揮して、2003、04年には2年連続で得点王に輝いた。(C)Getty Images

 新たな指揮官となるピティーノは、34歳の若さでニックスのHCに就任し、2シーズン過ごした後、カレッジバスケの強豪ケンタッキー大のHCに抜擢。同校を全米トップチームに仕立て上げた。1996年のNCAAトーナメント準々決勝で一度、ダンカン擁するウェイクフォレスト大と対戦しており、ダンカンがプロでもすぐさま通用し、近い将来リーグを代表するビッグマンになれる素材であると確信を抱いていた。

 一方、スパーズのHCを務めていたのは、現在も同職に就いているグレッグ・ポポビッチ。1988年から1992年まで、スパーズでラリー・ブラウンHCのアシスタントを務めていたポポビッチは、1994年にスパーズのGM兼バスケットボール部門副社長に就任する。1996-97シーズン、選手の故障が祟り開幕から負け続け、3勝15敗となった時点でHCのボブ・ヒルを解任し、自らHC職を兼任した。この強引とも言えるやり方に対し、当時ヒルHCに全幅の信頼を寄せていたロビンソンをはじめとする何人かの選手は、公然と異を唱えている。

 ロビンソンのケガはシーズン終盤に癒えていたにもかかわらず、ポポビッチHCは大事を取るという名目でプレーをさせなかった。その結果、20勝62敗という球団史上最低の記録を残し、運命のドラフトロッタリーを迎えるのだった。
 
■幸運の女神はスパーズとポポビッチに微笑む

 1997年のドラフトロッタリーについて、2007年にボストンの有力紙『ボストン・グローブ』が当事者たちへのインタビューを交えて記事にし、また2015年にはサンアント二オの地方紙『サンアント二オ・エクスプレスニュース』も同様のストーリーをしたためている。それらの記事に書かれた情報を元に、この年はドラフト本番以上に重要とされたロッタリーの様子を振り返ってみたい。

 5月18日、ニュージャージー州セコーカスにあるNBAのTVスタジオでドラフトロッタリーは行なわれた。その様子は、プレーオフ・カンファレンス準決勝のニックス対ヒート第7戦という、当時最も注目度の高い試合のハーフタイムに中継されている。(ヒートのPJ・ブラウンがリバウンド争いでニックスのチャーリー・ウォードをぶん投げた、あの有名なシリーズ)。

 ロッタリーは順調に進み、最後に残ったのはセルティックス、スパーズ、シクサーズの3チーム。スパーズからはオーナーのピーター・ホルトがTV番組用のイベントに参加、ポポビッチはスタジオの脇に設営されたホスピタリティテントで、小さなテレビ画面を見ながら、用意されていたチーズバーガーをビールで流し込んでいた。テントにはほかに誰もいなかった。ポポビッチは回想する。
 

RECOMMENDオススメ情報

MAGAZINE雑誌最新号