準決勝ラウンドに進出しても、アメリカの快進撃は続く。大会初出場となったユーゴスラビアとの試合では、ゲーム序盤から32-1と一方的に蹂躙し、62点差をつけて大勝。1952、56年大会と連続で銅メダルに輝いている強敵ウルグアイも、108-50とダブルスコアで片付けた。
同ラウンド最後の相手は、身長218cmの巨人ヤン・クルミンシュを擁するソビエト連邦(ソ連)。この最大の難敵に対して前半終了時こそ7点のリードにとどまったが、後半はフルコートプレスでソ連の攻撃を封じ込み、最初の5分で20点をあげ事実上の決勝戦を制した。
この大会は最終成績に2次ラウンドの結果と得失点差が持ち越される変則的なシステムだったため、その後行なわれた決勝ラウンドでの米ソ対決はなし。再び相見えたイタリアを112-81で下し、7戦無敗となったアメリカの最終戦の相手は、前年の世界選手権でアメリカを破り優勝していたブラジル(6勝1敗)だった。
アメリカに28点差以上をつけて勝った場合、ブラジルにも金メダルの可能性があった。しかし迎えた大一番でルーカスが両軍最多の21得点を奪う活躍を見せ、アメリカが27点差で快勝。全8戦の平均得点は101.9点、42.4点差をつける文句なしの優勝だった。
大会平均17.3点をあげたロバートソンを筆頭に、5選手が2桁得点をマーク。「教科書のようなバスケットボールだった。ボックスアウトにスクリーン、オフボールの動きと的確なパス……。全員が自分の役割をしっかりとこなしていた。大学でプレーするように、1人で33点も取らなくてよかったんだ」と誇らしげに述べたロバートソンが、ウエストともども代表して表彰台に上り金メダルを受け取った。
そのロバートソンは1960年にロイヤルズに入団し、同シーズンの新人王を受賞。1962年にはベラミー、さらに1963年はテリー・ディッシンガー(元ゼファーズほか)、1964年もルーカスと、ローマ五輪の金メダリストが4年続けて同賞に選出された。
同ラウンド最後の相手は、身長218cmの巨人ヤン・クルミンシュを擁するソビエト連邦(ソ連)。この最大の難敵に対して前半終了時こそ7点のリードにとどまったが、後半はフルコートプレスでソ連の攻撃を封じ込み、最初の5分で20点をあげ事実上の決勝戦を制した。
この大会は最終成績に2次ラウンドの結果と得失点差が持ち越される変則的なシステムだったため、その後行なわれた決勝ラウンドでの米ソ対決はなし。再び相見えたイタリアを112-81で下し、7戦無敗となったアメリカの最終戦の相手は、前年の世界選手権でアメリカを破り優勝していたブラジル(6勝1敗)だった。
アメリカに28点差以上をつけて勝った場合、ブラジルにも金メダルの可能性があった。しかし迎えた大一番でルーカスが両軍最多の21得点を奪う活躍を見せ、アメリカが27点差で快勝。全8戦の平均得点は101.9点、42.4点差をつける文句なしの優勝だった。
大会平均17.3点をあげたロバートソンを筆頭に、5選手が2桁得点をマーク。「教科書のようなバスケットボールだった。ボックスアウトにスクリーン、オフボールの動きと的確なパス……。全員が自分の役割をしっかりとこなしていた。大学でプレーするように、1人で33点も取らなくてよかったんだ」と誇らしげに述べたロバートソンが、ウエストともども代表して表彰台に上り金メダルを受け取った。
そのロバートソンは1960年にロイヤルズに入団し、同シーズンの新人王を受賞。1962年にはベラミー、さらに1963年はテリー・ディッシンガー(元ゼファーズほか)、1964年もルーカスと、ローマ五輪の金メダリストが4年続けて同賞に選出された。
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