【パワーフォワード】
カール・マローン
1963年7月24日生。206cm・113kg
キャリアスタッツ:1476試合、平均25.0点、フィールドゴール成功率51.6%、3ポイント成功率27.4%、フリースロー成功率74.2%、得点王0回
その昔、PFは守備型の選手が多かったからか、得点王になった選手は歴代でもほとんどいない。通算3万1560点で6位にランクされるダーク・ノビツキーも、年間ランキングは4位が最高だった。
マローンも、プロ入りが1年早かったジョーダンの厚い壁に阻まれ続け、2位が5回ありながらついに1位にはなれなかった(5回とも1位はジョーダン)。それでもユタ・ジャズに入団した2年目以降、17年連続で平均20点以上をマーク。この間ケガなどで欠場したのはたった9試合というタフネスぶりで得点を積み重ねた結果、通算3万6928点は史上2位。徹底的に鍛え上げた屈強な肉体の持ち主で、相棒ジョン・ストックトンの供給するパスを着実にゴールへ届けるさまは、メールマン(郵便配達人)のニックネーム通りだった。
一方で、フリースロー成功数は8回リーグ1位になっているが、成功率が80%を超えたことは一度もなく、大事な場面で外すこともしばしばあって実際以上に勝負弱いイメージもついている。
【センター】
ウィルト・チェンバレン
1936年8月21日生。216cm・125kg
キャリアスタッツ:1045試合、平均30.1点、フィールドゴール成功率54.0%、フリースロー成功率51.1%、得点王7回
キャリア通算の平均30.07点はジョーダンに0.05点及ばず歴代2位。ルーキーシーズンから獲得した7年連続得点王もジョーダンに並ばれた。しかし、そのジョーダンでも届かなかった大記録をチェンバレンは2つ持っている。
まずは1962年3月2日、ニューヨーク・ニックス戦で樹立した1試合100得点。そしてその61-62シーズンに記録した、年間平均50.4点である。なお翌62-63シーズンも平均44.8点をマークしており、年間平均得点の上位4位まではチェンバレンが独占している。50点ゲームは通算118回。身長216cm、体重125kgと、当時としては破格のサイズにして身体能力もずば抜けていたとあっては、史上最高のディフェンダーであるビル・ラッセル以外、誰も守れなかったのも仕方ない。
そのラッセルとのライバル対決は60年代のNBAを盛り上げ、リーグの人気が全国に広がっていく大きな要因となった。リバウンドでもリーグ1位に輝くこと11回、また67-68シーズンにはアシスト王にもなるなど、ただ点を取るだけの選手ではなかった。
カール・マローン
1963年7月24日生。206cm・113kg
キャリアスタッツ:1476試合、平均25.0点、フィールドゴール成功率51.6%、3ポイント成功率27.4%、フリースロー成功率74.2%、得点王0回
その昔、PFは守備型の選手が多かったからか、得点王になった選手は歴代でもほとんどいない。通算3万1560点で6位にランクされるダーク・ノビツキーも、年間ランキングは4位が最高だった。
マローンも、プロ入りが1年早かったジョーダンの厚い壁に阻まれ続け、2位が5回ありながらついに1位にはなれなかった(5回とも1位はジョーダン)。それでもユタ・ジャズに入団した2年目以降、17年連続で平均20点以上をマーク。この間ケガなどで欠場したのはたった9試合というタフネスぶりで得点を積み重ねた結果、通算3万6928点は史上2位。徹底的に鍛え上げた屈強な肉体の持ち主で、相棒ジョン・ストックトンの供給するパスを着実にゴールへ届けるさまは、メールマン(郵便配達人)のニックネーム通りだった。
一方で、フリースロー成功数は8回リーグ1位になっているが、成功率が80%を超えたことは一度もなく、大事な場面で外すこともしばしばあって実際以上に勝負弱いイメージもついている。
【センター】
ウィルト・チェンバレン
1936年8月21日生。216cm・125kg
キャリアスタッツ:1045試合、平均30.1点、フィールドゴール成功率54.0%、フリースロー成功率51.1%、得点王7回
キャリア通算の平均30.07点はジョーダンに0.05点及ばず歴代2位。ルーキーシーズンから獲得した7年連続得点王もジョーダンに並ばれた。しかし、そのジョーダンでも届かなかった大記録をチェンバレンは2つ持っている。
まずは1962年3月2日、ニューヨーク・ニックス戦で樹立した1試合100得点。そしてその61-62シーズンに記録した、年間平均50.4点である。なお翌62-63シーズンも平均44.8点をマークしており、年間平均得点の上位4位まではチェンバレンが独占している。50点ゲームは通算118回。身長216cm、体重125kgと、当時としては破格のサイズにして身体能力もずば抜けていたとあっては、史上最高のディフェンダーであるビル・ラッセル以外、誰も守れなかったのも仕方ない。
そのラッセルとのライバル対決は60年代のNBAを盛り上げ、リーグの人気が全国に広がっていく大きな要因となった。リバウンドでもリーグ1位に輝くこと11回、また67-68シーズンにはアシスト王にもなるなど、ただ点を取るだけの選手ではなかった。