“あなたの声を、まさに日曜の朝、フィリーからLAへ戻る前に聞いたばかりだった。あれが最後の会話になるなんて、万にひとつも考えはしなかった”。
コビーとレブロンは、事故当日の朝も電話で話をしていたのだという。コビーが生前最後に会話をしたNBA関係者は、レブロンだったのだろうか。
コビーはマイケル・ジョーダンから受け取ったバトンを、レブロンに手渡した。コビーがジョーダンに憧れ、闘志を燃やし、ビッグブラザーと慕ったように、レブロンにとってもコビーはライバルであると同時に、心の底から敬愛するビッグブラザーだった。
これまでレブロンは、コビーについてコメントをいくつか残している。その一部を読むだけで、彼の気持ちがいじらしいほど伝わってくる。
「ABCDキャンプ(全米から優れた高校生を集めて開催されていたバスケットボール・キャンプ)に行ったら、コビーが姿を現わして、そこにいた連中全員に話しかけてくれた。俺もたまたまそのなかの1人だった。その時、彼が言ったことを今でも覚えている。『もし偉大な選手になりたいのなら、努力しなければならない。努力に代わるものはないんだ』」
「NBAにドラフトされて、それでも俺は単純に彼に憧れていたよ。彼が成し遂げたことに対してね。俺はただ彼の仕事に対する意識を見ていた。彼がゲームに注ぎ込む、職業意識の高さを」
「2008年(北京オリンピックで初めて一緒にプレーし金メダルを獲得)、彼と同じラインナップでプレーした時は、俺の夢が叶った瞬間だった。とてもシュールだったよ」
「史上最高のバスケットボール選手の1人であるコビー・ビーン・ブライアントと、どんな内容であれ話ができて幸せだ」
憧れていた人物が亡くなる前夜に、その彼の持つ通算得点記録を抜き去り、喜びを分かち合い、亡くなる直前に肉声を交わした。レブロンの気持ちたるや、想像するだけで胸が苦しくなる。
レブロンがコビーの記録を抜いた試合、彼が履いていたシューズには、“Mamba 4 Life”の文字が書き込まれていたという。
(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2021年3月号掲載原稿に加筆・修正。
コビーとレブロンは、事故当日の朝も電話で話をしていたのだという。コビーが生前最後に会話をしたNBA関係者は、レブロンだったのだろうか。
コビーはマイケル・ジョーダンから受け取ったバトンを、レブロンに手渡した。コビーがジョーダンに憧れ、闘志を燃やし、ビッグブラザーと慕ったように、レブロンにとってもコビーはライバルであると同時に、心の底から敬愛するビッグブラザーだった。
これまでレブロンは、コビーについてコメントをいくつか残している。その一部を読むだけで、彼の気持ちがいじらしいほど伝わってくる。
「ABCDキャンプ(全米から優れた高校生を集めて開催されていたバスケットボール・キャンプ)に行ったら、コビーが姿を現わして、そこにいた連中全員に話しかけてくれた。俺もたまたまそのなかの1人だった。その時、彼が言ったことを今でも覚えている。『もし偉大な選手になりたいのなら、努力しなければならない。努力に代わるものはないんだ』」
「NBAにドラフトされて、それでも俺は単純に彼に憧れていたよ。彼が成し遂げたことに対してね。俺はただ彼の仕事に対する意識を見ていた。彼がゲームに注ぎ込む、職業意識の高さを」
「2008年(北京オリンピックで初めて一緒にプレーし金メダルを獲得)、彼と同じラインナップでプレーした時は、俺の夢が叶った瞬間だった。とてもシュールだったよ」
「史上最高のバスケットボール選手の1人であるコビー・ビーン・ブライアントと、どんな内容であれ話ができて幸せだ」
憧れていた人物が亡くなる前夜に、その彼の持つ通算得点記録を抜き去り、喜びを分かち合い、亡くなる直前に肉声を交わした。レブロンの気持ちたるや、想像するだけで胸が苦しくなる。
レブロンがコビーの記録を抜いた試合、彼が履いていたシューズには、“Mamba 4 Life”の文字が書き込まれていたという。
(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2021年3月号掲載原稿に加筆・修正。
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