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NBA

ノビツキー獲得を巡り繰り広げられた息詰まる駆け引き。2000年代のNBA勢力図に影響を与えたドラマ【NBAドラフト史:1998年】

大井成義

2020.02.27

ドラフトでは屈辱を味わったピアースだが、その後は低迷期のセルティックスを支え、2008年には名門に22年ぶりの優勝をもたらした。(C)Getty Images

ドラフトでは屈辱を味わったピアースだが、その後は低迷期のセルティックスを支え、2008年には名門に22年ぶりの優勝をもたらした。(C)Getty Images

 ドニーはスティーブ・ナッシュが高校生の頃から知り合いで、大学生の頃には友人になっていた。1996年NBAドラフトの1巡目15位でサンズがナッシュを獲得したのも、当時のアシスタントコーチ、ドニーによる強い後押しがあったからこそだった。

 マブズは保有する6位指名権を使い、単純にノビツキーを獲得することもできたが、9位指名権を持つミルウォーキーバックス、そしてサンズとのトレードを絡めることにより、サンズで燻っていたナッシュの獲得も一挙に狙った。ピティーノが描いたシナリオは、ネルソン親子の巧妙な策略により崩壊しつつあった。

 上位チームの指名が進んでいくなか、ピティーノはある異変に気付く。5位以内の指名が確実視されていたピアースが、6位、さらには7位でも選ばれなかったのだ。彼らは指名選手をノビツキー1本に絞っていたこともあり、ピアースとのワークアウトはおろか、リサーチすら十分に行なっていなかった。

 8位のシクサーズもピアースをスルーし、セルティックスの指名選手を通達する締め切り時間までは、9位バックスの5分と自分たちの5分を合わせてあと10分。その時ピティーノは動く。万が一に備え、ピアースの最新情報を入手すべく、彼の出身校カンザス大のロイ・ウィリアムズHCに電話をかけ、ピアースの故障の有無等を確認した。
 
 間違いなく獲得できると確信していたノビツキーは、9位でバックスにさらわれてしまう。安心しきっていただけにショックは大きく、「我々は粉砕され、精神的に打ちのめされたよ」。そうピティーノは述懐している。

 だがしかし、9位のバックスがノビツキーを指名したということは、ピアースがセルティックスに転がり込んでくることを意味した。わずか数分間に起こった、想像を絶するいくつかの出来事に、「あの時は神経がやられそうだった」とピティーノ。

 カリフォルニア州オークランドで生まれ、小4の頃にロサンゼルスのイングルウッドに越してきたピアースは、幼少時からレイカーズの大ファンだった。そんな彼にとって、レイカーズ最大のライバルチームであるセルティックスは、もちろん最も嫌いなチーム。その彼が、ひょんなことからセルティックスに入団する。そして、長い低迷期を経てフランチャイズプレーヤーへと成長し、栄えあるキャプテンとして2008年に22年ぶりの優勝をチームにもたらすのだから、世の中わからないものだ。

 もしあの時、ノビツキーとピアースの双方が残っていたら、ピティーノはどちらを選んでいたのか。彼の答えは「ノビツキー」だった。

 マブズ、バックス、サンズの間で6選手が絡んだ三角トレード。手練のネルソン親子が緻密に企てた、見事な一撃である。将来のレギュラーシーズンMVPが、2人同時に同一トレードで動いたのは、NBA史上初めての出来事であり、その後も発生していない。

 史上有数の外れドラ1となり、残念な意味で後々語り継がれ、NBAドラフト史に名前を残したオロウォカンディ。一方、ドラフトの綾により、想定外のチームに入団するも、ボストンとダラスにそれぞれ優勝をもたらし、NBA史に燦然とその名を刻むことになったピアースとノビツキー。そしてその余波により、ノビツキーとナッシュは生涯の友情を育むことになった。

 NBAドラフトが紡ぎだすドラマは、まさに悲喜こもごもである。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2016年1月号掲載原稿に加筆・修正。

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