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Jリーグ・国内

神様ジーコが激怒した日――27年前の4月12日から“常勝鹿島“の歴史は始まった

小室功

2020.04.12

かつて在籍していたウディネーゼの地元フリウリスタジアムでの一戦で、ジーコは烈火のごとく怒ったという。(C)J.LEAGUE PHOTOS

かつて在籍していたウディネーゼの地元フリウリスタジアムでの一戦で、ジーコは烈火のごとく怒ったという。(C)J.LEAGUE PHOTOS

 今から27年前の4月12日、鹿島アントラーズにとって忘れえぬ記憶がある。

 現在、テクニカルディレクターを務めるジーコが烈火のごとく怒ったといわれるクロアチア戦の惨敗だ。スコアは1-8。結果もさることながら、内容があまりにも悪すぎた。

 立ち上がり17分間で、あっけなく2点のリードを許す。新外国人助っ人のアルシンドのゴールでいったん息を吹き返したかに思われたが、その後も次々に失点を重ねてしまった。

 会場はかつてジーコが在籍していたウディネーゼの地元フリウリスタジアムだ。不甲斐ない試合を古巣の本拠地で見せてしまい、ピッチに立つジーコの表情が見る見るうちに変わっていったであろうことは想像に難くない。

 惨敗の理由は、いくつか考えられる。

 当時のクロアチアといえば、旧ユーゴスラビアの分離独立に伴い、新たに代表チームを編成し、国際舞台に戻ってきて間もないころだが、タレントの宝庫として知られ、一目置かれる存在だった。実際に、のちの1996年ヨーロッパ選手権ではベスト8に進出、98年フランスワールドカップでは3位という好成績を残している。

 鹿島戦には、その中心的メンバーのFWスーケルやMFボバン、DFヤルニが出場していたのだから、難敵にほかならない。
 
 しかも、ヨーロッパの各国リーグで活躍するクロアチア代表の選手たちはシーズンの真っただ中だった。かたや、鹿島の選手たちは日本サッカー界初のプロリーグであるJリーグの開幕を約1か月後に控え、チーム作りの最終段階。置かれた状況に違いがあった。

 当日は雨模様で、イタリアの芝生の感触は日本の慣れ親しんだ芝生のそれとは異なる。天候がよければ、より深い傷を負ったかもしれないが、そんな仮定の話はともかく、ズタボロにやられても致し方がなかっただろう。

 つまり、相手が悪すぎたのだ。

 だが、そうした空気感を負けず嫌いのジーコは安易に受け入れなかった。

 試合に勝つか、負けるか。それはやってみなければわからない。自分たちの思い描くとおりにいつも勝てるわけではないが、だからといって、はなから負けていい試合などあろうはずもない。猛烈な悔しさが引き金となり、怒りの沸点を超えた。

「どんなに相手が強くても、どんなに苦しい状況に置かれても、最後まで全力を尽くさなければいけない。それがプロとしてのあるべき姿だ」

 ジーコがチームに伝えたかったのは、同じピッチに立つプロとしての気概だった。
 

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