旧ユーゴスラビアの名FWにして、指導者としては4か国でクラブや代表チームを率いてサッカー界に大きな影響を与えてきたイビチャ・オシム(本名イバン・オシム)氏が4月1日、オーストリア・グラーツの自宅で亡くなった。
発表したのは、オシム監督が1994年から2002年まで率いたシュトゥルム・グラーツ。彼在任期間にグラーツはクラブ史上初のタイトル獲得(リーグ2回、国内カップ3回、スーパーカップ3回)やチャンピオンズ・リーグ出場を成し遂げており、「世紀の監督」と崇め奉る名将の死を、真っ先に世に知らせる責務を担ったのは当然とも言えよう。アシマ夫人から直接訃報を受けたというクリスティアン・ヤウク会長は、以下のように声明を発した。
【関連記事】「オノはマドリーに行けた!」元フェイエノールト幹部が小野伸二の“黄金期”を回想「常に日本代表に招集されて…」 「我々の世紀の監督は、クラブ創設日に亡くなった。オシム氏は素晴らしいコーチであるだけでなく、私が会えた中で最高の人間のひとりだった。彼はクラブ最大のアイコンであり、一緒に過ごした多くの時間を決して忘れない。彼はサッカーをはるかに超越した影響力を持っており、彼の言葉は永遠に我々の記憶と心に残る。我々は、ともに歩んできた仲間のうちの最も重要なひとりを失った。安らかに眠れ、イバン!」
オシム監督は、イビツァ・ヴァスティッチ(後に名古屋グランパスでプレー)、ハネス・ラインマイヤー、マリオ・ハース(ジェフ千葉でプレー)による「魔法のトライアングル」を生み出し、中堅クラブを強豪に押し上げてクラブの絶対的なレジェンドとなったが、それは千葉や日本代表など、他の歴任したチームでも同様だった。
その中で、旧ユーゴスラビア代表でのキャリアには多くの伝説が残されている。ジェレズニチャルを経て1986年に就任した母国代表チームはしかし、多民族国家ゆえに選手選考や起用に関しても指揮官へのプレッシャーは強く、オシム監督の苦労は絶えなかったが、それでも魅力溢れるタレントによる集団を形成、1990年イタリア・ワールドカップでは準々決勝まで駒を進め、ディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンをあと一歩のところまで追い詰めてみせた。
その後、さらにチームの熟成と強化を進め、予選突破を果たした1992年のEURO(欧州選手権)では優勝候補の一角に挙げられるも、母国の民族間の対立が激化して紛争にまで発展した結果、オシム監督は故郷サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)を攻撃する中央政府の代表チームは指揮できないとの信念を優先し、手が届きそうだった栄光を自ら手放すことを選んだ。
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