女子テニスの「WTAツアー」でトップ50位内に入った実績を持つ日本人8名が、その経験値をジュニア世代に還元するために立ち上げた一般社団法人『Japan Women's Tennis Top50 Club』(JWT50)。現在9名いるメンバーがリレー形式でキャリアの分岐点を明かすのがシリーズ『扉が開いた瞬間』だ。第2回は、元世界41位の森上亜希子氏が、自身のターニングポイントについて語ってくれた。
◆ ◆ ◆
一つの出会いが新たな出会いと縁を生み、やがて本人も予期せぬ地平へと導かれる現象を、人は"運命"と呼ぶのだろうか。
だとしたら森上亜希子にとって運命の起点は、小学生時代に師事したコーチとの出会いだったろう。小学6年生の時、森上は全国小学生選手権で日本の頂点に立つ。その時、コーチの青山祐司氏が森上に言ったのは、「僕が見られる範疇は超えている。一緒にコーチを探そう」だった。
金の卵を手にした時、果たしてどれほどの指導者が、そのような大局的英断を下せるだろう? 当の森上も、「それは難しいことで、今でもすごく感謝しています」と述懐する。
いずれにしても、「テニスが大好きで、ボールをクリーンに強打するのが楽しかった」という少女の運命の羅針盤は、この時、恐らくは本人も知らぬままに、世界を指すこととなった。
森上がラケットを手にしたのは、6歳の時。「最初は近所のテニススクールに通いながら、週末はレンタルコートで、家族みんなでテニスをやっていたんです」。始まりは、スポーツが好きな日本中の家庭によくある話だった。
最初の分岐点となったのは、「スクールだけでは物足りなくなり」、大阪府八尾市にある会員制のテニスクラブに通い始めたこと。前述の青山コーチと出会ったのも、このクラブだった。
小学6年生時の全国大会優勝を機に、青山コーチの導きで始まった新たなコーチ探し。結果的には幸運にも、森上は数か月で新たな師に巡り会えた。
「当時、宮城ナナさん(元シングルス51位、ダブルス12位)がITCテニススクールを拠点とされていて、そこにジョン・ハンキーという、ハリーホップマン・テニスクラブでコーチをされていた方がいたんです。もともと宮城さんのコーチで、ITCにヘッドハンティングされる形で日本に来たということでした。そのジョン・ハンキーが教え子のトライアウトをするというので、受けにいったらOKをもらえたんです」
こうして大阪の自宅から神戸市まで、「まあまあ遠い」距離を通う日々が始まった。秋から冬へと、季節が移ろう頃だった。
◆ ◆ ◆
一つの出会いが新たな出会いと縁を生み、やがて本人も予期せぬ地平へと導かれる現象を、人は"運命"と呼ぶのだろうか。
だとしたら森上亜希子にとって運命の起点は、小学生時代に師事したコーチとの出会いだったろう。小学6年生の時、森上は全国小学生選手権で日本の頂点に立つ。その時、コーチの青山祐司氏が森上に言ったのは、「僕が見られる範疇は超えている。一緒にコーチを探そう」だった。
金の卵を手にした時、果たしてどれほどの指導者が、そのような大局的英断を下せるだろう? 当の森上も、「それは難しいことで、今でもすごく感謝しています」と述懐する。
いずれにしても、「テニスが大好きで、ボールをクリーンに強打するのが楽しかった」という少女の運命の羅針盤は、この時、恐らくは本人も知らぬままに、世界を指すこととなった。
森上がラケットを手にしたのは、6歳の時。「最初は近所のテニススクールに通いながら、週末はレンタルコートで、家族みんなでテニスをやっていたんです」。始まりは、スポーツが好きな日本中の家庭によくある話だった。
最初の分岐点となったのは、「スクールだけでは物足りなくなり」、大阪府八尾市にある会員制のテニスクラブに通い始めたこと。前述の青山コーチと出会ったのも、このクラブだった。
小学6年生時の全国大会優勝を機に、青山コーチの導きで始まった新たなコーチ探し。結果的には幸運にも、森上は数か月で新たな師に巡り会えた。
「当時、宮城ナナさん(元シングルス51位、ダブルス12位)がITCテニススクールを拠点とされていて、そこにジョン・ハンキーという、ハリーホップマン・テニスクラブでコーチをされていた方がいたんです。もともと宮城さんのコーチで、ITCにヘッドハンティングされる形で日本に来たということでした。そのジョン・ハンキーが教え子のトライアウトをするというので、受けにいったらOKをもらえたんです」
こうして大阪の自宅から神戸市まで、「まあまあ遠い」距離を通う日々が始まった。秋から冬へと、季節が移ろう頃だった。