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海外テニス

【レジェンドの素顔10】ジミー・コナーズと母親の異様な親子関係がもたらした光と影│後編<SMASH>

立原修造

2021.12.28

一本立ちし、ジミーは真の復活を果たした。写真:THE DIGEST写真部

一本立ちし、ジミーは真の復活を果たした。写真:THE DIGEST写真部

一本立ちし、新たなテニス人生を歩み始めた

 こうしたやりとりが伝えているのは、ジミーがいかに母規ベッタリであったかということである。だが、母親に従っていくことで、ジミーは自らの才能を開花させた。ジミーにとって、グロリア以上の名コーチ、名マネジャーはいなかった。

 しかし、ひずみを生んだことも確かである。母親に従順な子にかぎって、他人に対して“違う顔色”を見せる。ジミーもまた、母親以外の人には、傍若無人なふるまいが目立った。

 顕著なのは、コートマナーの悪さである。テニス史上で、コートマナーの悪かったプレーヤーを3人挙げろといわれれば、イリ・ナスターゼ、ジミー・コナーズ、ジョン・マッケンローということになるだろう。ナスターゼやマッケンローと同格に扱われるほどだから、デビュー当時のジミーは正真正銘の“悪ガキ”だった。

 先輩プレーヤーに対する尊大な態度は周囲の非難のマトになった。“恥知らず”とまで言われたものだ。しかし、グロリアにとっては、そうした非難はどうでもいいことだった。この完璧な合理主義者は二兎を追ったりはしない。一兎だけを狙った。つまりナンバーワンになりさえすれば、それで良かったのだ。

 名声はタイトル数に応じて後からついてくるとさえ考えていた。「教育ママ」に尻をたたかれ通しだったジミーは、精神のアンバランスを露呈しながらも、ついに頂上に昇りつめた。ジミーの出場する試合は“カモン・ジミー!”と大声を張り上げるグロリアの姿がいつもあった。
 
 後年、ジミーは「自分はテニス・プレーヤーとしては不運な境遇に生まれた」と語ったことがある。この言葉はもちろん彼一流のジョークと受け止められた。幼い頃からテニスに親しめる環境を持てたことは“不運な境遇”などでは決してない。むしろ、“最高の境遇”とさえ言えるほどだったからだ。

 しかし、ジミーが内に秘めていた苛立ちを考えてみると、この言葉は単なるジョークで片づけられないものがあるのかもしれない。

 1974年に全豪、全英、全米を制し、強さをほしいままにしたジミーも、1975年以降は、ここ一番での勝負弱さが目立った。調子の波に乗ると圧勝するのだが、少しでも接戦になると粘り負けする。格下と見られていた選手にもコロコロ負けるし、強靭な精神力を誇るボルグにはいつも苦杯をなめた。

 ジミーが真に復活するのは、全英、全米を連覇した1982年である。子どもが生まれ、円満な家庭が心の支えになったとジミーはよく語っている。

 母親グロリアのもとを離れ、男として一本立ちしたとき、ジミーは新たなテニス人生を歩み始めたのである。

文●立原修造
※スマッシュ1987年5月号から抜粋・再編集

【PHOTO】ボルグ、コナーズ、エドバーグetc…伝説の王者たちの希少な分解写真/Vol.1
 
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