この『名馬列伝』シリーズは過去に多くのGⅠホースを取り上げてきた。グレード制導入以前のGⅠ級レースを含むと、実に65頭。しかし、今回ピックアップしたのは本シリーズ初の”非”GⅠホースとなる。
その馬の名は、フジヤマケンザン。GⅡを3勝、GⅢを2勝しただけの中堅クラスの馬だが、彼はこんにちに至る日本馬の海外遠征の扉を押し開いたパイオニアである。その意義は顕彰馬に準ずる価値があると確信している。
フジヤマケンザンは1988年4月17日、北海道・早来町の名門で、過去にテンポイント、プリテイキャスト、ワカオライデン、ワカテンザンなどを輩出した吉田牧場に生まれた。父は吉田牧場の輸入馬同士を配合して生まれ、自身は不出走のまま種牡馬入りしたラッキーキャスト、母は牧場の代表的牝系(クモワカ系)に連なるワカスズラン(父コントライト)という血統。父系、母系ともに老舗の吉田牧場らしく”自家生産”の色合いが濃いブラッドラインである。
牧場で育成を済ませたフジヤマケンザンは、ミホノブルボンで知られる栗東トレーニング・センターの戸山為夫厩舎に預けられる。牧場時代から大食漢として知られた彼は、入厩する時点ですでに570㎏もあったという巨体の持ち主で、脚部に過剰な負担がかからないように、スパルタ調教で知られた戸山でさえもトレーニングをセーブせざるを得なかった。そのために仕上がりが遅れて、デビューは3歳にまでずれ込んだ。
1月のデビューは5着に敗れたものの、折り返しの新馬戦で初勝利。続く500万下(現1勝クラス)も連勝したが、右前肢に骨膜炎を発症して戦線を離脱。春のクラシックシーズンを棒に振ってしまう。しかし、10月の復帰戦(900万下=現2勝クラス)を勝ち上がると、オープンの嵐山ステークスを2着とし、次戦の菊花賞(GⅠ)ではレオダーバンの3着に健闘。ポテンシャルの高さの一端を見せた。
そこからの戦いは、なかなか思うようにはいかなかった。4歳1月、クラス下がりの1500万下(現3勝クラス)を勝ち、オッズ1.9倍の圧倒的1番人気に推されたダイヤモンドステークス(GⅢ)を8着に敗退。そうかと思うと、次走の中日新聞杯(GⅢ)では道中3番手から抜け出して重賞初制覇を達成した。
続くオープン特別では勝利を収めるが、有馬記念(GⅠ)は14着に大敗。その後は関屋記念(GⅢ)やアメリカJCC(GⅡ)、中山記念(GⅡ)、毎日王冠(GⅡ)の2着やオープン特別の勝利はあったものの、長く重賞勝利からは遠ざかった。
そんなフジヤマケンザンが新たに矛先を向けたのは、1994年に国際交流競走を新設した香港競馬だった。
その馬の名は、フジヤマケンザン。GⅡを3勝、GⅢを2勝しただけの中堅クラスの馬だが、彼はこんにちに至る日本馬の海外遠征の扉を押し開いたパイオニアである。その意義は顕彰馬に準ずる価値があると確信している。
フジヤマケンザンは1988年4月17日、北海道・早来町の名門で、過去にテンポイント、プリテイキャスト、ワカオライデン、ワカテンザンなどを輩出した吉田牧場に生まれた。父は吉田牧場の輸入馬同士を配合して生まれ、自身は不出走のまま種牡馬入りしたラッキーキャスト、母は牧場の代表的牝系(クモワカ系)に連なるワカスズラン(父コントライト)という血統。父系、母系ともに老舗の吉田牧場らしく”自家生産”の色合いが濃いブラッドラインである。
牧場で育成を済ませたフジヤマケンザンは、ミホノブルボンで知られる栗東トレーニング・センターの戸山為夫厩舎に預けられる。牧場時代から大食漢として知られた彼は、入厩する時点ですでに570㎏もあったという巨体の持ち主で、脚部に過剰な負担がかからないように、スパルタ調教で知られた戸山でさえもトレーニングをセーブせざるを得なかった。そのために仕上がりが遅れて、デビューは3歳にまでずれ込んだ。
1月のデビューは5着に敗れたものの、折り返しの新馬戦で初勝利。続く500万下(現1勝クラス)も連勝したが、右前肢に骨膜炎を発症して戦線を離脱。春のクラシックシーズンを棒に振ってしまう。しかし、10月の復帰戦(900万下=現2勝クラス)を勝ち上がると、オープンの嵐山ステークスを2着とし、次戦の菊花賞(GⅠ)ではレオダーバンの3着に健闘。ポテンシャルの高さの一端を見せた。
そこからの戦いは、なかなか思うようにはいかなかった。4歳1月、クラス下がりの1500万下(現3勝クラス)を勝ち、オッズ1.9倍の圧倒的1番人気に推されたダイヤモンドステークス(GⅢ)を8着に敗退。そうかと思うと、次走の中日新聞杯(GⅢ)では道中3番手から抜け出して重賞初制覇を達成した。
続くオープン特別では勝利を収めるが、有馬記念(GⅠ)は14着に大敗。その後は関屋記念(GⅢ)やアメリカJCC(GⅡ)、中山記念(GⅡ)、毎日王冠(GⅡ)の2着やオープン特別の勝利はあったものの、長く重賞勝利からは遠ざかった。
そんなフジヤマケンザンが新たに矛先を向けたのは、1994年に国際交流競走を新設した香港競馬だった。




