1990年代から2000年代初頭、日本では現在を上回るほどの"格闘技ブーム"があった。リードしたのは、立ち技イベント「K-1」。その個性豊かなファイターたちの魅力を振り返る。
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ド迫力のKOが最大の魅力とも言われた往年のK-1ヘビー級戦線にあって、『最もKOで魅せた選手』は誰だろう。こと腕力に物を言わせたパンチでの倒しっぷりに関して言えば、多くのファンが"番長"ことジェロム・レ・バンナ(フランス)か、マイク・ベルナルド(南アフリカ)を選ぶのではないだろうか。とりわけ後者はお茶の間でも人気を博した戦士だった。
1969年7月28日の南アフリカ出身のベルナルドが、初めてK-1の舞台に乗り込んだのは、95年の第3回GP。前年に母国で開催されたISKAフルコンタクト・インターコンチネンタルスーパーヘビー級王座戦でバンナと繰り広げた激闘(※延長戦の末に敗北)を目の当たりにした高く評価されての参戦だった。
その開幕戦で当たったのはアンディ・フグ(スイス)。言うまでもなくK-1でトップクラスの人気選手だ。ところが、試合はベルナルドがKO勝ち。文字通りの番狂わせだった。当初は単なる"フグの相手"としか思われていなかった新鋭は、凄まじいハンドパンチャーだったのだ。
同じ年の9月、さっそくフグとの再戦が組まれた。大会名は『K-1 REVENGE』。つまりここでも主役はフグだ。がしかし、結果はまたもベルナルドのKO勝ち。当時26歳の新鋭はその実力をあらためて証明してみせたのである。
フグに"リベンジ"を許したのは、翌年5月だった。舞台はGP決勝戦。準々決勝でピーター・アーツ(オランダ)、準決勝で武蔵と闘い、脚にダメージをためていたベルナルドは、「フグ・トルネード」とも呼ばれた下段へのバックスピンキックでマットに沈んだ。
前年のGPでも、バンナのローキックによってベルナルドは準決勝で敗退していた。パンチャーゆえか、蹴りに対するディフェンスは極めて難があった。ボクシングに転向していた時期もあった彼はとくにローキックに対する守りが苦手だった。ライバルたちにはことごとくそこを突かれた。
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ド迫力のKOが最大の魅力とも言われた往年のK-1ヘビー級戦線にあって、『最もKOで魅せた選手』は誰だろう。こと腕力に物を言わせたパンチでの倒しっぷりに関して言えば、多くのファンが"番長"ことジェロム・レ・バンナ(フランス)か、マイク・ベルナルド(南アフリカ)を選ぶのではないだろうか。とりわけ後者はお茶の間でも人気を博した戦士だった。
1969年7月28日の南アフリカ出身のベルナルドが、初めてK-1の舞台に乗り込んだのは、95年の第3回GP。前年に母国で開催されたISKAフルコンタクト・インターコンチネンタルスーパーヘビー級王座戦でバンナと繰り広げた激闘(※延長戦の末に敗北)を目の当たりにした高く評価されての参戦だった。
その開幕戦で当たったのはアンディ・フグ(スイス)。言うまでもなくK-1でトップクラスの人気選手だ。ところが、試合はベルナルドがKO勝ち。文字通りの番狂わせだった。当初は単なる"フグの相手"としか思われていなかった新鋭は、凄まじいハンドパンチャーだったのだ。
同じ年の9月、さっそくフグとの再戦が組まれた。大会名は『K-1 REVENGE』。つまりここでも主役はフグだ。がしかし、結果はまたもベルナルドのKO勝ち。当時26歳の新鋭はその実力をあらためて証明してみせたのである。
フグに"リベンジ"を許したのは、翌年5月だった。舞台はGP決勝戦。準々決勝でピーター・アーツ(オランダ)、準決勝で武蔵と闘い、脚にダメージをためていたベルナルドは、「フグ・トルネード」とも呼ばれた下段へのバックスピンキックでマットに沈んだ。
前年のGPでも、バンナのローキックによってベルナルドは準決勝で敗退していた。パンチャーゆえか、蹴りに対するディフェンスは極めて難があった。ボクシングに転向していた時期もあった彼はとくにローキックに対する守りが苦手だった。ライバルたちにはことごとくそこを突かれた。