1990年代から2000年代初頭、日本では現在を上回るほどの“格闘技ブーム”があった。リードしたのは、立ち技イベント「K-1」。その個性豊かなファイターたちの魅力を振り返る。
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現在のK-1はアマチュアも含めてひとつの“競技”として確立されている感がある。だが、以前はそうではなかった。ヘビー級にも、中量級のK-1 MAXにも、異種格闘技戦の要素があったのだ。
たとえば、1993年に開催されたK-1 GP第1回トーナメントは単なるキックボクシングのイベントではなかった。「空手」の佐竹雅昭、「ムエタイ」のチャンプア・ゲッソンリットなど、さまざまなジャンルのファイターが出場するからこそのK-1だった。
2002年のK-1 MAX日本トーナメントもそうだった。総合格闘技で活躍してきた須藤元気、そして村浜武洋がエントリー。魔裟斗をはじめとするキックボクシングの猛者が集うなか、彼らの存在は異色かつK-1中量級という新たなカテゴリーに“幅”をもたらしたと言っていい。
とりわけ村浜は異色だった。シュートボクシングでプロデビューを飾り、団体のエースとして活躍していた彼は、身長こそ165cmと高くなかったが、小気味いい動きと攻撃力でムエタイの伝説的ファイター・チャモアペットとも激闘を展開する実力派。97年に行なわれたK-1フェザー級トーナメントでも優勝を果たした村浜は、レベルの高い選手がひしめく60kg前後の階級でもトップクラスだった。
シュートボクシングを離れるとプロレスの世界に飛び込んだ。もともと敬愛していたスペル・デルフィンの大阪プロレス(シュートボクシングでも勝利するとデルフィンのポーズを決めていた)に入り、プロレス大賞の新人賞を獲得した。
2001年に総合格闘技イベント「DEEP」に参戦した村浜は、ホイラー・グレイシーと対戦。寝技を含め大きな差があるかと思われたが、10分2ラウンド時間切れ引き分けに持ち込んだ。
K-1でも存在感はあった。K-1 MAX第1回日本トーナメントでは、初戦で魔裟斗と対戦。さらに2004年には、やはり初戦で初登場の山本“KID”徳郁を迎え撃った。どちらも敗戦に終わったが、それぞれの相手に選ばれたのは「村浜とならつまらない試合にはならない」という主催者サイドからの信頼があったからではないか。
その後も立ち技、総合の“二刀流”で闘い続けた村浜。長い連敗もあったが、本人は勝ち負け以上にファンの記憶に残るファイトが身上だった。そのチャレンジ精神、プロ意識は、格闘技界に欠かせないものだったと言えるだろう。
文●橋本宗洋
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たとえば、1993年に開催されたK-1 GP第1回トーナメントは単なるキックボクシングのイベントではなかった。「空手」の佐竹雅昭、「ムエタイ」のチャンプア・ゲッソンリットなど、さまざまなジャンルのファイターが出場するからこそのK-1だった。
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とりわけ村浜は異色だった。シュートボクシングでプロデビューを飾り、団体のエースとして活躍していた彼は、身長こそ165cmと高くなかったが、小気味いい動きと攻撃力でムエタイの伝説的ファイター・チャモアペットとも激闘を展開する実力派。97年に行なわれたK-1フェザー級トーナメントでも優勝を果たした村浜は、レベルの高い選手がひしめく60kg前後の階級でもトップクラスだった。
シュートボクシングを離れるとプロレスの世界に飛び込んだ。もともと敬愛していたスペル・デルフィンの大阪プロレス(シュートボクシングでも勝利するとデルフィンのポーズを決めていた)に入り、プロレス大賞の新人賞を獲得した。
2001年に総合格闘技イベント「DEEP」に参戦した村浜は、ホイラー・グレイシーと対戦。寝技を含め大きな差があるかと思われたが、10分2ラウンド時間切れ引き分けに持ち込んだ。
K-1でも存在感はあった。K-1 MAX第1回日本トーナメントでは、初戦で魔裟斗と対戦。さらに2004年には、やはり初戦で初登場の山本“KID”徳郁を迎え撃った。どちらも敗戦に終わったが、それぞれの相手に選ばれたのは「村浜とならつまらない試合にはならない」という主催者サイドからの信頼があったからではないか。
その後も立ち技、総合の“二刀流”で闘い続けた村浜。長い連敗もあったが、本人は勝ち負け以上にファンの記憶に残るファイトが身上だった。そのチャレンジ精神、プロ意識は、格闘技界に欠かせないものだったと言えるだろう。
文●橋本宗洋
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