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【名馬列伝】JRA不世出の牝馬ウオッカ。“最高傑作”を生んだカントリー牧場の系譜<前編>

THE DIGEST編集部

2022.10.29

2007年5月27日、ウオッカは牡馬勢を一蹴。64年ぶりに牝馬が日本ダービーの頂点に立った。写真:産経新聞社

 東京競馬場でのGⅠ開催のとき、筆者にはいつもとるルーティンがある。1レース前からスタンド3階か4階のスタンドに席を確保して、パドックを周回するメインレースの出走馬をじっくりと観察する。馬がパドックから出て行ったら小走りでコース側へと向かい、さらに返し馬の様子を眺めてから、3階の取材スペースへ行って、ファンファーレを待つのだ。その観戦スペースでいつも話すのが、私をこの世界に迎え入れてくれた先輩のEさんである。
 
 何も難しい話をするわけではない。パドックではあの馬が良かった、返し馬ではこの馬に迫力があった。いちファンとして、そんな他愛のない言葉のやりとりをするだけだ。しかし、そんな軽口のなかにも忘れられないものがある。2007年の日本ダービーでスタートを待っているときのことである。

「パドックのウオッカ、見ました?すごいことになってましたよねぇ。迫力は牡馬より全然上に見えましたよ」「やっぱりそう思った?すごい馬だよねぇ。一頭だけ別のオーラが出てて、まるで牝馬に見えなかったよ」

 そうは言うものの、二人はまさか数分後、本当にその牝馬が2着以下をぶっち切って先頭でゴールを駆け抜けるとは想像していなかった。
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「生きている間に牝馬がダービーを勝つところを見られると思わなかった」

 Eさんは紅潮した顔でそう口にした。筆者は呆けた顔をして、ただ「すげー、すげー!」と叫んでいた。

 のちにウオッカを送り出すことになるカントリー牧場は、ゴルフ場経営などを行う実業家にして馬主でもあった谷水信夫によって1963年北海道・静内(現・新ひだか町)に開かれた。『馬は鍛えて強くするもの』との信念を持っていた谷水は、自場の馬たちを手加減なしのスパルタ方式で、幼駒の時分から走りに走らせた。自ら円形馬場の中央に立って長い"追いムチ"を使い、馬が動けなくなるまで追い続けることもあったという。ロンジング(またはロンギング)と呼ばれるこのトレーニングは育成段階で普通に行なわれるものだが、谷水が実行したそれは常識の範疇を超えるほどハードで、少なくない馬がデビューを待たずに脱落していった。

 しかし、そのハードトレーニングを耐え抜いたなかから活躍馬が出た。のちにミホノブルボンを育て、"坂路調教の先駆者"として知られるようになる調教師の戸山為夫とのコンビで送り出したマーチスが1968年の皐月賞に優勝。また同窓のタニノハローモアは、マーチス、タケシバオー、アサカオーによる"三強"が人気を集めた同年の日本ダービーを逃げ切って大波乱を起こし、ファンの度肝を抜いた。ちなみに戸山は、のちに『鍛えて最強馬を作る-ミホノブルボンはなぜ名馬になれたのか』という著書でJRA賞馬事文化賞を受賞している。
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試行錯誤の改革を続けるカントリー牧場。努力が結実したのは02年の日本ダービー