1990年代から2000年代初頭、日本では現在を上回るほどの"格闘技ブーム"があった。リードしたのは、立ち技イベント「K-1」。その個性豊かなファイターたちの魅力を振り返る。
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K-1というより日本格闘技の中量級を語るうえで、佐藤嘉洋は欠かせない存在だ。
2005年に初参戦したK-1 WORLD MAX世界トーナメントでの優勝は叶わなかったが、決勝にまでは進んだ。そして日本トーナメントは2度も制した。魔裟斗との激闘も忘れ難い。佐藤は常にトップ戦線で闘い、結果を残してきたのだ。
K-1参戦以前から、佐藤は世界と闘ってきた。ニュージャパンキックボクシング連盟で1998年12月25日の宮本勲戦でデビューを飾ると、2001年からは全日本キックボクシング連盟へ。佐藤は海外の強豪と次々に対戦しては勝利を収めていった。そして2003年には、前年のK-1 MAX世界トーナメントで準優勝を飾っていたムエタイの猛者ガオラン・カウィチット(タイ)に勝利を収めて話題を作った。
揺るぎない実力、それが最大の持ち味。誰と闘っても大崩れはしない。「佐藤なら大丈夫」と思えるファイターだった。ファンから見ても頼りになる選手であったのだ。
リング上ではガツガツとした打ち合いでド派手に倒すといったタイプではなかったが、単に地味というだけでもなかった。筆者にとっての佐藤のベストバウトは、2004年のイタリア遠征だ。現地で活躍するタイ人ファイターのイッティポンとのタイトルマッチで、佐藤は4ラウンドTKO勝ちを収めたのだが、序盤から圧力をかけてローキック、さらに距離を詰めて膝を炸裂。相手を削りに削って、ついには沈没させた。
派手さはないが、アグレッシブ。なおかつ攻撃はバランスがよく的確。そして海外という緊張感のある場でもまったくペースを崩さない。リングサイドで彼を撮影していて、それこそ頼りになるなと思わされたのは今でも忘れない。
それでも大舞台で自分の力を証明したかったのだろう。佐藤は全日本キックを離脱し、2005年からK-1に活躍の場を求めた。"日本人最後の大物"は手痛い敗北を喫しつつも、アルバート・クラウス(オランダ)やアンディ・サワー(オランダ)といった名手たちと拳を交わしながら確実に世界トップクラスの一角を占めた。2008年に実現した魔裟斗戦ではダウンを奪ってもいる。
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K-1というより日本格闘技の中量級を語るうえで、佐藤嘉洋は欠かせない存在だ。
2005年に初参戦したK-1 WORLD MAX世界トーナメントでの優勝は叶わなかったが、決勝にまでは進んだ。そして日本トーナメントは2度も制した。魔裟斗との激闘も忘れ難い。佐藤は常にトップ戦線で闘い、結果を残してきたのだ。
K-1参戦以前から、佐藤は世界と闘ってきた。ニュージャパンキックボクシング連盟で1998年12月25日の宮本勲戦でデビューを飾ると、2001年からは全日本キックボクシング連盟へ。佐藤は海外の強豪と次々に対戦しては勝利を収めていった。そして2003年には、前年のK-1 MAX世界トーナメントで準優勝を飾っていたムエタイの猛者ガオラン・カウィチット(タイ)に勝利を収めて話題を作った。
揺るぎない実力、それが最大の持ち味。誰と闘っても大崩れはしない。「佐藤なら大丈夫」と思えるファイターだった。ファンから見ても頼りになる選手であったのだ。
リング上ではガツガツとした打ち合いでド派手に倒すといったタイプではなかったが、単に地味というだけでもなかった。筆者にとっての佐藤のベストバウトは、2004年のイタリア遠征だ。現地で活躍するタイ人ファイターのイッティポンとのタイトルマッチで、佐藤は4ラウンドTKO勝ちを収めたのだが、序盤から圧力をかけてローキック、さらに距離を詰めて膝を炸裂。相手を削りに削って、ついには沈没させた。
派手さはないが、アグレッシブ。なおかつ攻撃はバランスがよく的確。そして海外という緊張感のある場でもまったくペースを崩さない。リングサイドで彼を撮影していて、それこそ頼りになるなと思わされたのは今でも忘れない。
それでも大舞台で自分の力を証明したかったのだろう。佐藤は全日本キックを離脱し、2005年からK-1に活躍の場を求めた。"日本人最後の大物"は手痛い敗北を喫しつつも、アルバート・クラウス(オランダ)やアンディ・サワー(オランダ)といった名手たちと拳を交わしながら確実に世界トップクラスの一角を占めた。2008年に実現した魔裟斗戦ではダウンを奪ってもいる。