スプリントからマイルのレースに特化した馬はかなりいるが(近年であればロードカナロア)、さらにその先の距離を目指す馬、いや、目指すだけではなく成功した馬はそう多くはない。
例えば、近年の成功として挙げるとすればモーリスになるだろうか。マイルに専念した間に安田記念、マイルチャンピオンシップ、香港マイル、チャンピオンズマイルといった国外のマイルGⅠを怒涛の4連勝。その後、2000mの中距離に敢然と挑戦し、2016年の天皇賞(秋)、そして引退レースとなる香港カップの2つのGⅠを連勝し、種牡馬入りする際に大きなアドバンテージを手にした。
そこから遡ること20数年。スプリントからマイル、そして2000m戦へと段階を踏みながら着実に成長した名馬がいた。美浦の栗田博憲調教師が手塩にかけた”風の化身”こと、ヤマニンゼファーがその馬である。
ヤマニンゼファーの父は安田記念を勝ち、秋に創設されたばかりのマイルチャンピオンシップを2連覇し、「マイルの皇帝」と呼ばれるほど日本競馬にとって屈指のマイラーとの評価を受けたニホンピロウイナーである。ただ本馬は、父が主に短距離を得意とする産駒を量産したスティールハートの血統に強い影響を受けてか、一度だけ挑戦した天皇賞(秋)では勝ち馬と僅差ながら3着同着に入るのが精一杯だった。
種牡馬としてのニホンピロウイナーはまずまずの成功を収め、2頭のGⅠホースを世に送り出した。1頭は1992年産の牝馬フラワーパーク(高松宮杯、スプリンターズステークス)。そして、もう1頭が今回取り上げるヤマニンゼファーである。
ヤマニンゼファーは1952年に創業し、ヤマニンウエーブ(72年の天皇賞(秋)を優勝)などを送り出した北海道・日高地区にある名門・錦岡牧場で生まれた。母のヤマニンポリシーの父ブラッシンググルーム(Blushing Groom)が優れたスピードを持つ産駒を多く出していることから、これにスピード豊かなニホンピロウイナーを種付けて短距離に特化した馬の生産を目指したと伝えられている。
ボリューミーで胴が詰まった典型的な短距離馬の体形を持って生まれたヤマニンゼファーは、一度はトレセンに入厩したものの、骨膜炎などの不具合があって放牧休養を強いられたため、デビューは3歳の3月(91年)までずれ込んだ。
脚元の不安を慮ってダート戦でデビューしたヤマニンゼファーは、1200m戦を2連勝して高いポテンシャルの一部を覗かせた。そして初芝に加え、重賞初挑戦となるクリスタルカップ(GⅢ、中山・芝1200m)では3着に食い込み、一介のダート馬ではないことも証明してみせた。
その後、900万下(現・2勝クラス)のダート1200m戦を勝ち上がったヤマニンゼファーは、格上挑戦となるGⅠのスプリンターズステークス(中山・芝1200m)に参戦。中団で粘りを見せたものの、強豪牝馬として名高かったダイイチルビーから1秒差の7着に敗戦するが大差を付けられたわけではなく、のちにつながっていく経験を積んだという意味では意義あるレースとなった。
仕切り直しとなった翌92年、4歳になったヤマニンゼファーは自己条件の羅生門ステークス(1500万下、京都・ダート1200m)を勝って堂々とオープン入りした。
例えば、近年の成功として挙げるとすればモーリスになるだろうか。マイルに専念した間に安田記念、マイルチャンピオンシップ、香港マイル、チャンピオンズマイルといった国外のマイルGⅠを怒涛の4連勝。その後、2000mの中距離に敢然と挑戦し、2016年の天皇賞(秋)、そして引退レースとなる香港カップの2つのGⅠを連勝し、種牡馬入りする際に大きなアドバンテージを手にした。
そこから遡ること20数年。スプリントからマイル、そして2000m戦へと段階を踏みながら着実に成長した名馬がいた。美浦の栗田博憲調教師が手塩にかけた”風の化身”こと、ヤマニンゼファーがその馬である。
ヤマニンゼファーの父は安田記念を勝ち、秋に創設されたばかりのマイルチャンピオンシップを2連覇し、「マイルの皇帝」と呼ばれるほど日本競馬にとって屈指のマイラーとの評価を受けたニホンピロウイナーである。ただ本馬は、父が主に短距離を得意とする産駒を量産したスティールハートの血統に強い影響を受けてか、一度だけ挑戦した天皇賞(秋)では勝ち馬と僅差ながら3着同着に入るのが精一杯だった。
種牡馬としてのニホンピロウイナーはまずまずの成功を収め、2頭のGⅠホースを世に送り出した。1頭は1992年産の牝馬フラワーパーク(高松宮杯、スプリンターズステークス)。そして、もう1頭が今回取り上げるヤマニンゼファーである。
ヤマニンゼファーは1952年に創業し、ヤマニンウエーブ(72年の天皇賞(秋)を優勝)などを送り出した北海道・日高地区にある名門・錦岡牧場で生まれた。母のヤマニンポリシーの父ブラッシンググルーム(Blushing Groom)が優れたスピードを持つ産駒を多く出していることから、これにスピード豊かなニホンピロウイナーを種付けて短距離に特化した馬の生産を目指したと伝えられている。
ボリューミーで胴が詰まった典型的な短距離馬の体形を持って生まれたヤマニンゼファーは、一度はトレセンに入厩したものの、骨膜炎などの不具合があって放牧休養を強いられたため、デビューは3歳の3月(91年)までずれ込んだ。
脚元の不安を慮ってダート戦でデビューしたヤマニンゼファーは、1200m戦を2連勝して高いポテンシャルの一部を覗かせた。そして初芝に加え、重賞初挑戦となるクリスタルカップ(GⅢ、中山・芝1200m)では3着に食い込み、一介のダート馬ではないことも証明してみせた。
その後、900万下(現・2勝クラス)のダート1200m戦を勝ち上がったヤマニンゼファーは、格上挑戦となるGⅠのスプリンターズステークス(中山・芝1200m)に参戦。中団で粘りを見せたものの、強豪牝馬として名高かったダイイチルビーから1秒差の7着に敗戦するが大差を付けられたわけではなく、のちにつながっていく経験を積んだという意味では意義あるレースとなった。
仕切り直しとなった翌92年、4歳になったヤマニンゼファーは自己条件の羅生門ステークス(1500万下、京都・ダート1200m)を勝って堂々とオープン入りした。