1989年12月、デビューの新馬戦(芝1200m)で2着に10馬身(1秒6)もの差を付けて逃げ切って天賦の才を見せ付けたアグネスフローラは、翌年3月のチューリップ賞(OP)まで4連勝。続く桜花賞(GⅠ)では直線5番手から鮮やかに差し切って、母のアグネスレディーが6着に敗れた桜の冠を奪取。次走のオークス(GⅠ)は人気薄だったエイシンサニーの大駆けに遭って2着に敗れてしまい、レース後に発覚した骨折、また復帰を目指す過程で発症した屈腱炎のため現役を引退。大きな期待を背に北海道・千歳市の社台ファームで繁殖入りした。
アグネスフローラには繁殖入り1年目から次々と当時のトップサイアーが種付されたが(1番仔はサンデーサイレンス、2、3番仔はトニービン)、目立つ成績は残せなかった。しかし1997年、再び付けられたサンデーサイレンスとの間にできた4番仔(牡馬)は目覚ましい走りを見せた。名前をアグネスフライトといい、母と同じく調教師の長浜博之が手がけ、河内洋が手綱をとった。
デビューが遅れたアグネスフライトは、3歳の2月に新馬戦を勝ち上がり、次走の若葉ステークス(OP)は12着に大敗したが、続く若草ステークス(OP)、京都新聞杯(GⅢ)を快勝。45歳のベテランとなりながら日本ダービーの勝ち鞍がない河内洋は「これが最後のチャンスになるかもしれない」という迫る思いをアグネスフライトに託して大一番へと向かった。
レースは激闘となった。最後の直線、皐月賞(GⅠ)を制して臨んだ武豊騎乗のエアシャカールが先に抜け出すが、それを許すまいとアグネスフライトが猛追。兄弟弟子のジョッキー2人がお互いのプライドをかけた激烈な追い比べを展開した末、アグネスフライトがわずかにハナ差先着。17回目の挑戦でついに河内洋はダービージョッキーとなった。
それから半年後、阪神の新馬戦を快勝した栗毛の牡馬がファンと関係者をざわつかせた。同年の日本ダービー馬アグネスフライトの全弟、アグネスタキオンがその馬。もちろん管理調教師は長浜博之、手綱をとるのは河内洋である。
アグネスフローラには繁殖入り1年目から次々と当時のトップサイアーが種付されたが(1番仔はサンデーサイレンス、2、3番仔はトニービン)、目立つ成績は残せなかった。しかし1997年、再び付けられたサンデーサイレンスとの間にできた4番仔(牡馬)は目覚ましい走りを見せた。名前をアグネスフライトといい、母と同じく調教師の長浜博之が手がけ、河内洋が手綱をとった。
デビューが遅れたアグネスフライトは、3歳の2月に新馬戦を勝ち上がり、次走の若葉ステークス(OP)は12着に大敗したが、続く若草ステークス(OP)、京都新聞杯(GⅢ)を快勝。45歳のベテランとなりながら日本ダービーの勝ち鞍がない河内洋は「これが最後のチャンスになるかもしれない」という迫る思いをアグネスフライトに託して大一番へと向かった。
レースは激闘となった。最後の直線、皐月賞(GⅠ)を制して臨んだ武豊騎乗のエアシャカールが先に抜け出すが、それを許すまいとアグネスフライトが猛追。兄弟弟子のジョッキー2人がお互いのプライドをかけた激烈な追い比べを展開した末、アグネスフライトがわずかにハナ差先着。17回目の挑戦でついに河内洋はダービージョッキーとなった。
それから半年後、阪神の新馬戦を快勝した栗毛の牡馬がファンと関係者をざわつかせた。同年の日本ダービー馬アグネスフライトの全弟、アグネスタキオンがその馬。もちろん管理調教師は長浜博之、手綱をとるのは河内洋である。




