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MLB

もはや隠し球じゃない――ドラフト戦線に突然現れた“無名の155キロ右腕”柴田大地が辿った波瀾万丈すぎる球歴【後編】

矢崎良一

2021.10.08

大学時代は公式戦登板ゼロだった柴田。だが、特大のポテンシャルを持つ右腕は、いわばテストの場で周囲の度肝を抜いた。写真:徳原隆元

大学時代は公式戦登板ゼロだった柴田。だが、特大のポテンシャルを持つ右腕は、いわばテストの場で周囲の度肝を抜いた。写真:徳原隆元

 柴田もまた、辻を信頼した。だから、言われたことは何でもやろうとした。

 柴田は一度、日誌に「辻さんが“当たり前”だと思っていることが、僕には当たり前じゃない」と書いてきたことがあった。「シンプルに投げろ」と辻がアドバイスした時のことだ。言葉として理解しようとするのだが、身体の動きがそれを実践できなかった。そうやって悩みながら、少しずつ自分のピッチングフォームを作っていった。

 辻は、柴田から学んだことがあるという。

「自発的に取り組むことで、選手はこんなにも伸びるものなんだ」

 柴田の存在は、辻にとっても指導者としての新たな引き出しになっている。

 それにしても、これほど何度も怪我を繰り返し、野球が出来ない時間を過ごしながら、柴田はなぜモチベーションが落ちなかったのだろう?

 辻はこう考えている。

「100人いても、彼にしか出来なかったことでしょう。ただ、そういう人間でなくてはプロには行けない。野球で生きていける人間なんだと思いました」

 日体荏原で指導した本橋慶彦監督も、こう言っている。

「送り出したとき、そうなってほしいとは思っていました。でも、イメージ以上に良くなっていた。大学の古城監督や辻コーチの指導が素晴らしく、彼に合っていたのでしょう」

「日体大に凄いボールを投げる未完の大器がいる」

 それは、チームに出入りする用具メーカーの社員や、一部のプロのスカウトの間では噂になっていた。

 とはいえ、知らない人にとっては、「いまだ公式戦登板ゼロ」の投手でもある。4年生になった柴田は、またしても進路の問題に直面する。

 社会人野球では、故障を抱えていても企業チームに採用されるケースはある。ただその場合、ある程度の実績がある選手なら、「治ればこれくらいの成績が残せる」という“裏づけ”のようなものがあるから、大学側も話を進めやすい。高校、大学と、実績がゼロに近い柴田の場合、企業もなかなか手を出しにくかったはずだ。

 柴田にとって幸運だったのは、日体大という人材豊富なチームに所属していたことだった。同じ学年に、ドラフトに掛かるかどうかのボーダーライン上にいる投手がいた。指名漏れのリスクがあり、そうなったときのために大学側は保険を掛けておきたいし、社会人側もとりあえずアプローチしておく。いわゆる「プロ待ち」という状態だ。

 当時、日本通運を指揮していた藪宏明監督が、日体大に、この投手の練習参加を打診した。日体大の古城隆利監督は「プロ入りの意思が硬いので」と説明したが、藪は「プロ待ちでも構わないので」と言う。「それなら」と古城がある提案をする。

「じつは、もうひとり見てもらいたいピッチャーがいるのですが」

 その“もうひとり”が柴田だった。藪が快諾し、柴田の日本通運への練習参加が決まった。野球界では、こういうケースを「お付き」と呼んでいる。相手の本命の選手にくっつけて、別の選手も見てもらう。そこで、もし目に留まったら採用の可能性も出て来る。柴田にしてみたらチャンスだ。どんな形であっても、採ってもらえたら野球が続けられる。そのためには、まず見てもらわなくては始まらない。

 ただ、この頃の柴田は肘の状態がかなり悪く、一度投げたら、それから数日は投げられない、という状況だった。その“投げられる一日”を、そこにあてるしかない。辻も付きっきりで調整を手伝った。

 また、このとき、日本通運は武田久(元・日本ハムファイターズ)が投手コーチを務めていた。辻とは同じプロ出身ということもあり、二人には付き合いがあった。すぐに連絡を取り、柴田の特徴、現在の状態などを細かく説明した。どんな投手か理解したうえで、見て、判断してもらいたいと思ったからだ。

 そして迎えた練習参加の日。ここで柴田は、ある伝説を残す。それは「一球で採用が決まった」というものだ。
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