ノースカロライナ州は、アメリカで最もカレッジバスケットボール熱の高い地域のひとつだ。NCAAトーナメント(以下トーナメント)を制したチームも多く、ノースカロライナ州大が2回、デューク大が5回、そしてノースカロライナ大(UNC)は6度も全米王者に輝いている。
これらの強豪校に阻まれていることもあり、ウェイクフォレスト大は優勝どころか、ファイナル4進出も1度しかない。UNCやデューク大に比べ、学校自体の規模が小さいため致し方ない部分もある。それでもNBA史上最強のパワーフォワード(PF)と、現役最高のパサーを輩出しており、トーナメントの実績以上に大きな存在感を醸し出している。
“ディーモン・ディーコンズ”という変わった愛称を持つウェイクフォレスト大のバスケ部は、1905年に創部された。1939年の第1回トーナメントに出場した8校のうちのひとつで、2度目の出場は1953年。この時の中心選手だったディッキー・ヘムリックがレギュラーシーズンでマークした通算2587得点は、2006年にデューク大のJJ・レディック(ニューオリンズ・ペリカンズ)に抜かれるまで、アトランティックコースト・カンファレンスの最多記録だった。また、ヘムリックは同大出身のNBA選手第1号でもあり、ボストン・セルティックスで2年間プレーしている。
トーナメントで最高成績を残したのは1962年。NBAでのヘッドコーチ(HC)経験を持つボーンズ・マッキニーの下、平均30.1点を稼いだレン・チャペルやビリー・パッカーの働きでファイナル4に進出。準決勝でオハイオ州大に敗れたが、3位決定戦ではUCLAを撃破した。
オールアメリカンに選ばれたチャペルは、同年のドラフト4位でシラキュース・ナショナルズ(現フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)に入団。ニューヨーク・ニックス移籍後の1964年はオールスターに出場したが、その後のキャリアは下降線を辿った。また、3球団からエクスパンション・ドラフトで指名されるという珍記録も作っている(1966年/シカゴ・ブルズ、1968年/ミルウォーキー・バックス、1970年/クリーブランド・キャバリアーズ)。
これらの強豪校に阻まれていることもあり、ウェイクフォレスト大は優勝どころか、ファイナル4進出も1度しかない。UNCやデューク大に比べ、学校自体の規模が小さいため致し方ない部分もある。それでもNBA史上最強のパワーフォワード(PF)と、現役最高のパサーを輩出しており、トーナメントの実績以上に大きな存在感を醸し出している。
“ディーモン・ディーコンズ”という変わった愛称を持つウェイクフォレスト大のバスケ部は、1905年に創部された。1939年の第1回トーナメントに出場した8校のうちのひとつで、2度目の出場は1953年。この時の中心選手だったディッキー・ヘムリックがレギュラーシーズンでマークした通算2587得点は、2006年にデューク大のJJ・レディック(ニューオリンズ・ペリカンズ)に抜かれるまで、アトランティックコースト・カンファレンスの最多記録だった。また、ヘムリックは同大出身のNBA選手第1号でもあり、ボストン・セルティックスで2年間プレーしている。
トーナメントで最高成績を残したのは1962年。NBAでのヘッドコーチ(HC)経験を持つボーンズ・マッキニーの下、平均30.1点を稼いだレン・チャペルやビリー・パッカーの働きでファイナル4に進出。準決勝でオハイオ州大に敗れたが、3位決定戦ではUCLAを撃破した。
オールアメリカンに選ばれたチャペルは、同年のドラフト4位でシラキュース・ナショナルズ(現フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)に入団。ニューヨーク・ニックス移籍後の1964年はオールスターに出場したが、その後のキャリアは下降線を辿った。また、3球団からエクスパンション・ドラフトで指名されるという珍記録も作っている(1966年/シカゴ・ブルズ、1968年/ミルウォーキー・バックス、1970年/クリーブランド・キャバリアーズ)。