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大型PGとして人気を博したペニーが波乱のキャリアを回想。“早熟の天才”が「最も失望した時間」とは?

ダンクシュート編集部

2020.06.10

93年にデビューしたペニーは大型司令塔としてセンセーショナルな活躍を披露。スーパースターの階段を着実に上っていたが……。(C)Getty Images

 身長201cmでポイントガード(PG)を務め、自ら平均20点以上を叩き出す――。アンファニー・"ペニー"・ハーダウェイは、元祖・大型司令塔のマジック・ジョンソンが「鏡で自分を見ているようだ」と言えば、名シューターのレジー・ミラーは「マジックよりも優れたスコアラー」と称するほどの逸材だった。マイケル・ジョーダンの後継者とも期待されたが、度重なるケガで輝きを失った"早熟の天才"が、元NBA選手のマット・バーンズとスティーブン・ジャクソンがホストを務めるポッドキャスト番組『ALL THE SMOKE』で波乱万丈のNBAキャリアを振り返った。

 1993年のドラフト1巡目3位でゴールデンステイト・ウォリアーズに指名されたペニーは、当日のトレードでオーランド・マジックへ移籍。ルーキーイヤーから全82試合に先発出場し、平均16.0点、5.4リバウンド、6.6アシスト、2.32スティールの好成績で、怪物シャキール・オニール(シャック)のパートナーとして名乗りを上げた。

 翌1994-95シーズンには平均20.9点、7.2アシスト、FG成功率51.2%と成績を伸ばし、オールスター出場、オールNBA1stチーム初選出とリーグ屈指のPGに成長。プレーオフでもジョーダンが1度目の引退から復帰したシカゴ・ブルズを破り、球団創設6年目でファイナル初進出を果たした。頂上決戦ではアキーム・オラジュワン擁するヒューストン・ロケッツに4連敗を喫したものの、ペニーは平均25.5点、4.8リバウンド、8.0アシストと意地を見せた。
 
 3年目の95-96シーズンも平均21.7点、7.1アシスト、FG成功率51.3%を記録したが、プレーオフではカンファレンス決勝でブルズに前年のリベンジを食らって敗退。シャックがシーズン終了後にロサンゼルス・レイカーズへ移籍したため、単独エースに昇格することになる。

 ペニーが最初にヒザにメスを入れたのは96年11月。ジャパンゲームで日本を訪れた後、左ヒザの関節鏡手術を受けて23試合を欠場した。来日前の10月29日、MRI検査を受けたが、疑いのあった軟骨損傷は確認できず、抗炎症薬の投与を受けながらプレーを続行。しかし、痛みや違和感が増したことで手術に踏み切った。当時、「ほとんど歩けない日もあった」ヒザの痛みは、前年のプレーオフ1回戦、デトロイト・ピストンズのジョー・デュマースの下腿後部が接触したことによるものだと考えているという。

「ジョー・デュマースとの接触で私はヒザを痛めた。あの年は休めず、数か月後まで耐え続けた。我慢できなくなったところで医者に相談したけど、診断結果は半月板損傷だった」

 95-96シーズンを終えた後、ペニーはアメリカ代表の一員としてアトランタ五輪に出場しており、満足に休暇を取れずに新シーズンを迎えた。本人も「ただの炎症だと思っていた」ことに加え、マジックのトレーニングキャンプが始まるまで痛みなくプレーできてしまったことが悲劇を呼んだ。