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バードも認めた「欧州のスナイパー」ヤシケビシャスがNBAで犯した“ふたつの過ち”

小川由紀子

2020.06.29

バード(右)からのラブコールに応えペイサーズを決断したヤシケビシャス(左)。しかしこれが“大きな過ち”だった。(C)Getty Images

 世界一の競技人口を誇るバスケットボール。その最高峰リーグであるNBAには世界中から優れたプレーヤーが集結し、特に2000年代以降は外国籍選手の数も飛躍的に増加した。しかし、その中には己の実力を発揮しきれず、数年でアメリカを後にしたプレーヤーも少なくない。NBAに挑み、再び欧州の舞台へ舞い戻った挑戦者たちを、シリーズで紹介しよう。

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 6月25日(日本時間26日、日付は以下同)、惜しまれつつ現役引退を発表したヴィンス・カーター(元トロント・ラプターズほか)。彼が1巡目5位指名を受けた1998年のドラフトで、チャンスを得られずアメリカを去った男がいた。

 その男の名は、現在若手の指導者として注目を集めているリトアニアの至宝、サルナス・ヤシケビシャス。2018年夏には、ニック・ナースとともにラプターズのヘッドコーチ(HC)候補にも名が挙げられていた人物だ。
 
 現役時代のヤシケビシャスは、狙った的は逃さない正確無比なジャンパーで"欧州のスナイパー"と呼ばれていた。成功率9割を超えるフリースローはまるで機械のようで、同時に味方のシュートをお膳立てすることを無上の喜びとする頭脳派のフロアリーダーでもあった。

 2003年のユーロバスケットで母国を金メダルに導き、またクラブでもバルセロナやマッカビ・テルアビブ、パナシナイコスといった欧州を代表する強豪で計4度のユーロリーグ優勝を経験。彼がプレーするチームにトロフィーが付いて回るほどの"タイトル請負人"であり、指導者となった今でも、ヨーロッパのバスケットボールファンから絶大な尊敬を勝ち得ている。

 日の当たる道を歩き続けてきたかに見えるヤシケビシャス。しかし実際には、多くの挫折も味わっていた。

 リトアニアのバスケットボールの聖地カウナスで生まれ育ち、ジャルギリス・カウナスの大ファンだった彼は、同クラブ傘下のバスケットボールスクールでプレーを始め、高校3年時にアメリカへバスケ留学。当時のヤシケビシャスにとっての夢への第一ステップは、カレッジバスケットボール選手になることだったが、本人が熱望していたシラキュース大どころかスカウトの誘いはどこからも届かず、一時は心労やストレスから急性胃炎を起こすほど精神的に追い込まれていた。
 
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“自分をより高める”ために一時帰国