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「エリート」のユーイングと「落ちこぼれ」のスタークス。対照的なふたりがニックスを強豪に押し上げるまで【NBAデュオ列伝・前編】

出野哲也

2020.10.05

ユーイング(左)とスタークス(右)、正反対な2人がニックスを強豪へと押し上げていく。(C)Getty Images

 新型コロナウイルスの蔓延でスケジュールが大幅に変わったため、今季のNBAドラフトは例年の6月ではなく、11月の開催となった。NBAのドラフトでは単純に成績の悪かった順に指名するのではなく、抽選の要素を盛り込んだロッタリー制度を採用しており、1985年以降は多少の修正を加えながら、ずっとこの方式を継続している。

 そのきっかけを作ったのが、当時ジョージタウン大にいたパトリック・ユーイング。彼を獲得するために意図的に負け、指名順位を上げようとするチームが出るのを防ぐために、ロッタリー制度は取り入れられた。ユーイングはそれほどまでに有望視されていた選手だったのだ。

 その最初のロッタリーで見事に1位指名権を得たニューヨーク・ニックスがユーイングを指名した頃、遠く離れたオクラホマ州ではジョン・スタークスが大学をドロップアウトしていた。9年後にスタークスとユーイングがNBA王座を懸けて共闘することになろうとは、誰1人知る由もなかった。
 
■対照的な道程を辿ってきた2人のバスケットキャリア

 ジャマイカに生まれ、11歳の時にアメリカに移住したユーイングは、バスケットボールと出会ってその才能を開花させた。1982年、新入生のユーイングをチームの中心としたジョージタウン大は、NCAAトーナメントの決勝まで駒を進めたが、ノースカロライナ大の1年生、マイケル・ジョーダンに決勝シュートを沈められて敗退。これ以降、ユーイングの前には常にジョーダンが立ちはだかることになる。

 それでも、1984年にはアキーム・オラジュワン(元ヒューストン・ロケッツほか)を擁するヒューストン大を破り全米制覇。1985年の決勝では格下のビラノバ大によもやの敗戦を喫したが、ネイスミス賞などの個人賞を受賞したユーイングは、誰もが認める大学No.1センターだった。

 一方、スタークスはまったく正反対の人生を歩んでいた。父が家庭を捨てたため、中学卒業後すぐに就職。兄の勧めでバスケットボールを再開し、ノーザンオクラホマ大に進んだが、奨学金を得られず結局退学してしまう。
 
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ユーイングがキャリア最高のシーズンを送ったオフ、スタークスが現われる