■第1シードの前に立ちはだかり史上最大の番狂わせの立役者に
2年目以降、平均得点は1年目を上回ることはなかったが、その代わり守備力にますます磨きがかかる。1993―94シーズンからは3年連続で最多ブロックを記録。相手ゴールの前に難攻不落の巨峰としてそびえ立った“マウント・ムトンボ”がその威力を最大限に発揮したのが、94年のプレーオフ1回戦だった。
リーグ最高勝率のシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)と対戦した第8シードのナゲッツは、最初の2戦に敗れたあと3連勝。史上初となる第1シードの1回戦敗退という番狂わせを演出した。5試合で合計31ブロック、最終第5戦では8ブロックを決め、ソニックスの攻撃を機能不全に陥らせたムトンボは「勝てるとは思っていなかった。ただいいゲームをしようとしただけだった」。勝利の瞬間、ボールを手にした彼が満面の笑みを浮かべてコートに倒れこんだ光景は、90年代のNBAで有数の名シーンだった。
96年にFAとなってアトランタ・ホークスへ移籍。97年に2度目の最優秀守備選手賞を受賞すると、翌98年にもアフリカの偉大な先輩アキーム・オラジュワンらを抜いて、史上最多となる3度目の栄誉に輝いた。
2000−01シーズン途中にはフィラデルフィア・セブンティシクサーズに移籍し、初のNBAファイナルを経験。当時絶頂期のシャキール・オニールを擁するレイカーズ相手に、平均16.8点、12.0リバウンドと健闘しながらも1勝しかできずに敗退。03年にもネッツで再びファイナルに出場したが、スパーズに敗れてチャンピオンリングは手にできずに終わった。
最後の5年間はロケッツでヤオ・ミンの控えとしてプレー。40歳になっていた06―07シーズンは、ヤオの故障欠場中に11試合連続で2桁リバウンドを奪ったり、5年ぶりの20本以上となる22リバウンドを記録するなど健在ぶりを示した。
しかし、09年のプレーオフで左ヒザの靭帯を損傷し、42歳にして現役にピリオドを打つ。「こんな形で終わりたくはなかった」と涙を流しながらも「素晴らしい18年間だった。多くの素晴らしい人たちと一緒に選手生活を送れて幸せだった」と感謝の言葉を述べて、コートを後にした。
2年目以降、平均得点は1年目を上回ることはなかったが、その代わり守備力にますます磨きがかかる。1993―94シーズンからは3年連続で最多ブロックを記録。相手ゴールの前に難攻不落の巨峰としてそびえ立った“マウント・ムトンボ”がその威力を最大限に発揮したのが、94年のプレーオフ1回戦だった。
リーグ最高勝率のシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)と対戦した第8シードのナゲッツは、最初の2戦に敗れたあと3連勝。史上初となる第1シードの1回戦敗退という番狂わせを演出した。5試合で合計31ブロック、最終第5戦では8ブロックを決め、ソニックスの攻撃を機能不全に陥らせたムトンボは「勝てるとは思っていなかった。ただいいゲームをしようとしただけだった」。勝利の瞬間、ボールを手にした彼が満面の笑みを浮かべてコートに倒れこんだ光景は、90年代のNBAで有数の名シーンだった。
96年にFAとなってアトランタ・ホークスへ移籍。97年に2度目の最優秀守備選手賞を受賞すると、翌98年にもアフリカの偉大な先輩アキーム・オラジュワンらを抜いて、史上最多となる3度目の栄誉に輝いた。
2000−01シーズン途中にはフィラデルフィア・セブンティシクサーズに移籍し、初のNBAファイナルを経験。当時絶頂期のシャキール・オニールを擁するレイカーズ相手に、平均16.8点、12.0リバウンドと健闘しながらも1勝しかできずに敗退。03年にもネッツで再びファイナルに出場したが、スパーズに敗れてチャンピオンリングは手にできずに終わった。
最後の5年間はロケッツでヤオ・ミンの控えとしてプレー。40歳になっていた06―07シーズンは、ヤオの故障欠場中に11試合連続で2桁リバウンドを奪ったり、5年ぶりの20本以上となる22リバウンドを記録するなど健在ぶりを示した。
しかし、09年のプレーオフで左ヒザの靭帯を損傷し、42歳にして現役にピリオドを打つ。「こんな形で終わりたくはなかった」と涙を流しながらも「素晴らしい18年間だった。多くの素晴らしい人たちと一緒に選手生活を送れて幸せだった」と感謝の言葉を述べて、コートを後にした。