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NBA

内戦による難民化、貧困から大学進学を諦めプロ入り…波乱に満ちたエマニュエル・ムディエイのキャリア<DUNKSHOOT>

小川由紀子

2021.12.27

2シーズンぶりにNBAに戻ったムディエイ。そのキャリアは波乱に満ちたものだった。(C)Getty Images

2シーズンぶりにNBAに戻ったムディエイ。そのキャリアは波乱に満ちたものだった。(C)Getty Images

 新型コロナウイルスへの感染が再び拡大している今、試合が延期になったり、選手が安全衛生プロトコル入りしてロースターに欠員が出るなど、イレギュラーな状況となっているNBA。しかしその一方で、デビュー機会やプレータイムの増加といったチャンスを得ている選手もいる。

 先日、サクラメント・キングスと10日間契約を結んだポイントガードのエマニュエル・ムディエイもその1人。2015年のドラフトでデンバー・ナゲッツから1巡目7位という高順位で指名されたムディエイだが、フリーエージェントとなった2020年のオフに移籍先を見つけられず、今季はリトアニアのジャルギリスと契約したものの、11月2日に契約解除となっていた。

 22日のロサンゼルス・クリッパーズ戦で、1年4か月ぶりにNBAのコートに立ったムディエイ。8分間の出場でノーゴール、2アシストという結果に終わったが、格別な思いを味わったことだろう。
 
 彼の人生は、これまでも波乱万丈だった。

 ムディエイは1996年、内戦のさなかにあったコンゴに生まれた。幼い頃に父親は他界し、子どもたちを抱えて困窮した母は、国外に避難することを決意する。

 母は最初、カナダを目指すつもりだった。しかし、姉がアメリカのダラスにいたため、予定を変更してテキサスへと渡航。母が生活環境を整える間、幼いムディエイは兄とコンゴに残り、ようやくアメリカに合流できたのは、母が渡米して1年半後のことだった。

「もしあの時、母親がカナダに渡っていたら、僕の人生はまったく違うものになっていたと思う」

 そう回想したムディエイ。カナダにはトロント・ラプターズがあり、バスケットボール人気も高いものの、カルチャーとして日常的にバスケットボールに触れる機会はアメリカの比ではない。

「たぶん自分は、バスケットボール選手にはなれていなかったと思う」

 ムディエイはNBAアフリカとのインタビューで、そう振り返っている。

 高校生の時点ですでに“期待の新星”として注目を集め、2015年のモックドラフトではトップ5入りの常連、1位指名に挙げたメディアもあった。進学先については、10ものカレッジから誘いがあったなかから“選択肢を絞る”という贅沢な状況に。そのなかのひとつが、2004年にデトロイト・ピストンズをNBAチャンピオンに導いたラリー・ブラウンがヘッドコーチを務めていたサザンメソジスト大(SMU)だった。
 
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