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NBA

【NBAスター悲話】ドラゼン・ペトロビッチ――非業の死を遂げた欧州出身プレーヤーの父【後編】

大井成義

2019.12.07

気性の激しさもペトロビッチを一流に導いた一因。あのジョーダンに対しても何ら恐れることなくトラッシュトークを仕掛けていった。(C)Getty Images

気性の激しさもペトロビッチを一流に導いた一因。あのジョーダンに対しても何ら恐れることなくトラッシュトークを仕掛けていった。(C)Getty Images

■祖国を包む戦火、親友との反目、そして訪れた悲劇的結末

 一見軌道に乗り始めたNBA生活だったが、まったく問題がないわけではなかった。ネッツのエースに成長したペトロビッチに対して、快く思っていないチームメイトも存在した。当時アシスタントコーチだったポール・サイラスは、地元メディアにこう語っている。

「ドラゼンとの間に問題を抱えている選手がチーム内にいることは確かだ。彼らは、ドラゼンが1人でシュートを打ちすぎ、常にボールをキープしたがっていると感じている」

 また、彼の過剰なまでの練習熱心さや、コート上での大袈裟なパフォーマンスを目障りに思う選手もいて、ロッカールームで陰口を叩かれることも少なくなかった。

 1992-93シーズン終了後、ネッツはフリーエージェントとなったペトロビッチと新たな契約を結ぼうとしていた。しかし金銭面での折り合いが付かず、何よりチームに居心地の悪さを感じはじめていたペトロビッチは、なかなか契約に応じようとしなかった。揚げ句の果てには、地元メディアに「ギリシャのチームから来ている2年の契約を受けるだろう」とこぼす始末。
 
 それでも、ペトロビッチに近い関係者は「最終的にネッツと契約を結ぶつもりだった」と述べている。ネッツは5年の契約を提示しており、金額こそギリシャのチーム(年400万ドル)より少なかったものの、NBAのシューティングガードではジョーダンに次ぐ高額契約だった。当時ネッツのGMだったウィリス・リードも、「まず間違いなく戻ってくるはずだ」と自信を覗かせていた。

 契約の問題以外に、コートを離れたところにもペトロビッチを悩ます懸念事項があった。ユーゴスラビアの内戦である。経済の悪化に端を発したユーゴスラビア連邦の崩壊、さらには宗教、民族の対立が深刻化し、1991年、クロアチア人とセルビア人との間に血みどろの戦争が始まった。

 祖国の内戦に胸を痛める日々が続いた。まだインターネットのない時代、短波ラジオで受信した祖国のニュースに、沈痛な面持ちで耳を傾けるペトロビッチの姿があった。セルビア人である親友のディバッツとも、戦争に対する意見の食い違いから一切口をきかなくなってしまった。
 

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