“レインマン(The Reign man)”というニックネームがケンプに授けられたのは、2年目のことだった。ある日、ソニックスのチームアナウンサー、ケビン・カラブロウが“Rain Man”(ダスティン・ホフマンとトム・クルーズ出演の1988年アカデミー賞受賞作品)のポスターを目にする。そこからヒントを得たカラブロウは、「ケンプはゲームを支配(Reign)し、繰り出されるダンクはまるで雨(Rain)。彼こそまさしく“The Reign Man”だ!」と実況。雨の多いシアトルの街にぴったりのそのニックネームは、あっという間に定着した。
迎えた3年目は、ケンプにとって大きなターニングポイントとなった。レギュラーシーズンこそ2度のケガに見舞われ、欠場も多く伸び悩んだが、ハイライトの瞬間は1992年のプレーオフ1stラウンド、対ウォリアーズ第3戦に訪れた。
残り試合時間が1分を切り、スコアはタイ。ファーストブレイクでペイトンが3ポイントライン付近から放り込んだロングパスを、逆サイドから走り込んできたケンプが豪快なアリウープでリングに叩き込むというスーパープレーが飛び出す。勢い余って、リングにぶら下がったまま体を一回転させるというパフォ―マンスも含めて、ケンプのキャリアの中で最も有名なプレーのひとつとなっている。
この劇的なプレーをきっかけに、ケンプはシアトルにおける圧倒的なファンフェイバリットとなると同時に、リーグを代表するパワーフォワードとして認知されるようになる。翌年にはコーチ推薦で初のオールスターに選出され、その後5年連続でファン投票によりスターターとして出場した。
ケンプとペイトンはNBAを代表するデュオへと成長していき、1993-94シーズンには球団記録となる63勝19敗という好成績をマークする。ところがプレーオフ1stラウンドの対ナゲッツ戦で、NBA史上初めて第1シードが第8シードに敗れるという大アップセット劇をくらってしまう。
そのシーズン、ケンプはオールNBA2ndチームに選出され、夏にカナダで行なわれた世界選手権にドリームチームⅡのメンバーとして出場し金メダルを獲得、オールトーナメントチームにも選ばれた。押しも押されもせぬスター選手となったケンプだったが、順風満帆に見えたキャリアに、追い風だけではなく隙間風も吹き込んできたのはこの頃だった。
世界選手権の直前、ソニックスのHC、ジョージ・カールがケンプとブルズのスコッティ・ピッペンのトレードを画策し、地元のファンが大騒ぎするというハプニングがあった。最終的にトレードは流れたものの、それをきっかけにケンプはチームに不信感を抱くようになる。
迎えた3年目は、ケンプにとって大きなターニングポイントとなった。レギュラーシーズンこそ2度のケガに見舞われ、欠場も多く伸び悩んだが、ハイライトの瞬間は1992年のプレーオフ1stラウンド、対ウォリアーズ第3戦に訪れた。
残り試合時間が1分を切り、スコアはタイ。ファーストブレイクでペイトンが3ポイントライン付近から放り込んだロングパスを、逆サイドから走り込んできたケンプが豪快なアリウープでリングに叩き込むというスーパープレーが飛び出す。勢い余って、リングにぶら下がったまま体を一回転させるというパフォ―マンスも含めて、ケンプのキャリアの中で最も有名なプレーのひとつとなっている。
この劇的なプレーをきっかけに、ケンプはシアトルにおける圧倒的なファンフェイバリットとなると同時に、リーグを代表するパワーフォワードとして認知されるようになる。翌年にはコーチ推薦で初のオールスターに選出され、その後5年連続でファン投票によりスターターとして出場した。
ケンプとペイトンはNBAを代表するデュオへと成長していき、1993-94シーズンには球団記録となる63勝19敗という好成績をマークする。ところがプレーオフ1stラウンドの対ナゲッツ戦で、NBA史上初めて第1シードが第8シードに敗れるという大アップセット劇をくらってしまう。
そのシーズン、ケンプはオールNBA2ndチームに選出され、夏にカナダで行なわれた世界選手権にドリームチームⅡのメンバーとして出場し金メダルを獲得、オールトーナメントチームにも選ばれた。押しも押されもせぬスター選手となったケンプだったが、順風満帆に見えたキャリアに、追い風だけではなく隙間風も吹き込んできたのはこの頃だった。
世界選手権の直前、ソニックスのHC、ジョージ・カールがケンプとブルズのスコッティ・ピッペンのトレードを画策し、地元のファンが大騒ぎするというハプニングがあった。最終的にトレードは流れたものの、それをきっかけにケンプはチームに不信感を抱くようになる。