NBA入り第1号はジョン・ローガン。前身組織のBAAでスコアラーとして活躍し、セントルイス・ボマーズ(現在は消滅)時代の1947~49年には3シーズン連続でオールBAAに選ばれた好選手だった。
ウォルト・ベラミーは1960年のローマ五輪で金メダルを獲得し、翌1961年に新設球団のシカゴ・パッカーズ(現ワシントン・ウィザーズ)にドラフト1位で入団する。初年度から平均31.6点、19.0リバウンドと見事な数字を残し新人王に選ばれたが、以降は右肩下がりに成績が低下。結局1年目がキャリアハイとなるなど、竜頭蛇尾感が否めなかった。
トムとディック、双子のヴァン・アースデール兄弟は1965年にNBA入りし、揃って1977年にフェニックス・サンズで引退。オールスター出場は3回ずつ、通算出場試合数はトムが929、ディックが921と、何から何までそっくりなキャリアを歩んだ。
インディアナポリス生まれのジョージ・マッギニスは、1年時の1970-71シーズンに学校記録となる平均30.0点をマーク。同年に地元球団のペイサーズ(当時ABA)に入団すると、1975年に平均29.8点をあげて得点王に輝いた。翌年から編入したNBAでも能力を存分に発揮し、キャリア晩年の1980年に再びペイサーズへ加入。1982年に故郷で現役を引退した。
1971年にはインディアナ大史上最高、そしてカレッジバスケ界でも指折りの名物コーチ、ボブ・ナイトが指揮官に就任。後述する数々の輝かしい実績に加え、戦術面ではモーションオフェンスの完成度を高めたことで有名だが、それ以上に激しい気性の持ち主としてその名が広く知れ渡っている。審判や対戦チームのHC、観客を相手に幾度となく揉め事を起こしたほか、判定を不服としてコート内に椅子を投げ入れたシーンは、動画などで観たことがあるファンも多いのではないだろうか。
ただコーチとしての力量は確かで、1976年にはカレッジバスケ史上有数のチームを作り上げた。ケント・ベンソンやスコット・メイ、クイン・バックナーらを中心に、シーズン無敗のままトーナメント決勝に進出。史上初めて同カンファレンス同士の対決となったミシガン大との頂上決戦は、メイが26得点、ベンソンが25得点を奪い3度目の全米制覇を成し遂げた。
ウォルト・ベラミーは1960年のローマ五輪で金メダルを獲得し、翌1961年に新設球団のシカゴ・パッカーズ(現ワシントン・ウィザーズ)にドラフト1位で入団する。初年度から平均31.6点、19.0リバウンドと見事な数字を残し新人王に選ばれたが、以降は右肩下がりに成績が低下。結局1年目がキャリアハイとなるなど、竜頭蛇尾感が否めなかった。
トムとディック、双子のヴァン・アースデール兄弟は1965年にNBA入りし、揃って1977年にフェニックス・サンズで引退。オールスター出場は3回ずつ、通算出場試合数はトムが929、ディックが921と、何から何までそっくりなキャリアを歩んだ。
インディアナポリス生まれのジョージ・マッギニスは、1年時の1970-71シーズンに学校記録となる平均30.0点をマーク。同年に地元球団のペイサーズ(当時ABA)に入団すると、1975年に平均29.8点をあげて得点王に輝いた。翌年から編入したNBAでも能力を存分に発揮し、キャリア晩年の1980年に再びペイサーズへ加入。1982年に故郷で現役を引退した。
1971年にはインディアナ大史上最高、そしてカレッジバスケ界でも指折りの名物コーチ、ボブ・ナイトが指揮官に就任。後述する数々の輝かしい実績に加え、戦術面ではモーションオフェンスの完成度を高めたことで有名だが、それ以上に激しい気性の持ち主としてその名が広く知れ渡っている。審判や対戦チームのHC、観客を相手に幾度となく揉め事を起こしたほか、判定を不服としてコート内に椅子を投げ入れたシーンは、動画などで観たことがあるファンも多いのではないだろうか。
ただコーチとしての力量は確かで、1976年にはカレッジバスケ史上有数のチームを作り上げた。ケント・ベンソンやスコット・メイ、クイン・バックナーらを中心に、シーズン無敗のままトーナメント決勝に進出。史上初めて同カンファレンス同士の対決となったミシガン大との頂上決戦は、メイが26得点、ベンソンが25得点を奪い3度目の全米制覇を成し遂げた。