【シューティングガード】
ローランド・ブラックマン
1959年2月26日生。198cm・86kg
在籍期間:11シーズン(1981~92年)
成績:865試合、平均19.2点、3.6リバウンド、3.2アシスト
マーベリックスには外国出身の好選手が多い。現役のドンチッチ(スロベニア)とクリスタプス・ポルジンギス(ラトビア)もそうだし、ダーク・ノビツキーはドイツ、ナッシュはカナダ、ジェームス・ドナルドソンはイギリス生まれ。そしてチーム史上最高のシューティングガードであるブラックマンは、パナマ初のNBA選手だった(ただし育ったのはブルックリン)。
幻となった1980年モスクワ五輪代表メンバーの1人で、正確なミドルジャンパーだけでなく、細身ながらも強靭な肉体を生かしてインサイドでも着実に得点を奪取。通算のフィールドゴール(FG)成功率49.3%はガードのプレーヤーとしてはかなりの高確率であり、通算1万6643得点はノビツキーに抜かれるまでの球団記録だった。
オールスターにも4回出場し、1987年の大会では29得点をマーク。オーバータイムに持ち込むフリースローを決めたのもブラックマンで、このとき発した「コンフィデンス、ベイビー(自信を持って打て)」と自らに言い聞かせた言葉は、マブズファンの間で流行語になった。
【スモールフォワード】
マーク・アグワイア
1959年12月10日生。198cm・105kg
在籍期間:8シーズン半(1981~89年)
成績:566試合、平均24.6点、5.7リバウンド、3.8アシスト
球団史上唯一のドラフト全体1位指名選手が、1981年に入団したアグワイアだ。この時2位でデトロイト・ピストンズに入団したのは、アグワイアと子どもの頃からの親友だったアイザイア・トーマス。結果的にトーマスを指名しなかったのは失敗だったかもしれないが、アグワイアも間違いなく優秀な選手だった。
身長は2mに満たなくとも、ポストアップから絶妙なムーブを繰り出し得点を量産。2年目から6年連続で平均20点以上、1983-84シーズンにマークした29.5点は、得点王に輝いたエイドリアン・ダントリー(ユタ・ジャズ)にわずか1.1点差のハイアベレージだった。
1988年のプレーオフでは1クォーターで27得点をあげたこともあり、ブラックマンが「相手がどんな戦術で抑えようとしても、彼はかいくぐることができた」と語ったのも大げさではないだろう。在籍時の通算平均24.6点は、ノビツキーを抑えて球団史上1位。1988-89シーズン途中、かつて得点王を阻まれたダントリーとの交換でピストンズに移籍し、親友トーマスとともに2度の優勝を味わっている。
ローランド・ブラックマン
1959年2月26日生。198cm・86kg
在籍期間:11シーズン(1981~92年)
成績:865試合、平均19.2点、3.6リバウンド、3.2アシスト
マーベリックスには外国出身の好選手が多い。現役のドンチッチ(スロベニア)とクリスタプス・ポルジンギス(ラトビア)もそうだし、ダーク・ノビツキーはドイツ、ナッシュはカナダ、ジェームス・ドナルドソンはイギリス生まれ。そしてチーム史上最高のシューティングガードであるブラックマンは、パナマ初のNBA選手だった(ただし育ったのはブルックリン)。
幻となった1980年モスクワ五輪代表メンバーの1人で、正確なミドルジャンパーだけでなく、細身ながらも強靭な肉体を生かしてインサイドでも着実に得点を奪取。通算のフィールドゴール(FG)成功率49.3%はガードのプレーヤーとしてはかなりの高確率であり、通算1万6643得点はノビツキーに抜かれるまでの球団記録だった。
オールスターにも4回出場し、1987年の大会では29得点をマーク。オーバータイムに持ち込むフリースローを決めたのもブラックマンで、このとき発した「コンフィデンス、ベイビー(自信を持って打て)」と自らに言い聞かせた言葉は、マブズファンの間で流行語になった。
【スモールフォワード】
マーク・アグワイア
1959年12月10日生。198cm・105kg
在籍期間:8シーズン半(1981~89年)
成績:566試合、平均24.6点、5.7リバウンド、3.8アシスト
球団史上唯一のドラフト全体1位指名選手が、1981年に入団したアグワイアだ。この時2位でデトロイト・ピストンズに入団したのは、アグワイアと子どもの頃からの親友だったアイザイア・トーマス。結果的にトーマスを指名しなかったのは失敗だったかもしれないが、アグワイアも間違いなく優秀な選手だった。
身長は2mに満たなくとも、ポストアップから絶妙なムーブを繰り出し得点を量産。2年目から6年連続で平均20点以上、1983-84シーズンにマークした29.5点は、得点王に輝いたエイドリアン・ダントリー(ユタ・ジャズ)にわずか1.1点差のハイアベレージだった。
1988年のプレーオフでは1クォーターで27得点をあげたこともあり、ブラックマンが「相手がどんな戦術で抑えようとしても、彼はかいくぐることができた」と語ったのも大げさではないだろう。在籍時の通算平均24.6点は、ノビツキーを抑えて球団史上1位。1988-89シーズン途中、かつて得点王を阻まれたダントリーとの交換でピストンズに移籍し、親友トーマスとともに2度の優勝を味わっている。