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NBA

【NBAスター悲話】デイビッド・トンプソン――ジョーダン級の資質を持ちながら神になれなかった男【後編】

大井成義

2019.12.04

82年に加入したソニックスでは2年間で平均15.2点。ナゲッツ時代の輝きを取り戻すことは2度となかった。(C)Getty Images

82年に加入したソニックスでは2年間で平均15.2点。ナゲッツ時代の輝きを取り戻すことは2度となかった。(C)Getty Images

■ジョーダン級の資質を持ちながら神になれなかった男

 1979年、トンプソンの転落が始まった。高額の契約がプレッシャーとなり、コカインとアルコールの摂取量が日増しに多くなるにつれ、依存症も次第に酷くなっていった。その結果、練習への遅刻も多くなり、あまつさえ練習にまったく顔を出さない日も出始めた。それでもトンプソンは、いったんコートに足を踏み入れればリーグのトップ選手であることに変わりはなく、押しも押されもせぬスター選手だった。

 しかし翌シーズン、足首の靭帯損傷に見舞われシーズンの大半を欠場すると同時に、彼は失墜の一途を辿っていく。遅刻やサボリ癖は顕著となり、試合でのプレーにもムラが目立つようになった。同時にドラッグによる分裂症が現われはじめ、ベンチを温める日が多くなった。そして1982年、ついにチームを放出される。トレード先はシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)で、交換相手は自分よりまったく格下の相手だった。

 翌年、トンプソンはコカインとアルコールを断ち切りなんとかカムバックを果たそうとしたが、重度の中毒症状に陥っていた身体は言うことをきかなかった。そして、1982-83シーズン終了と同時にデンバーのドラッグ・リハビリクリニックに入院。
 
 翌シーズン途中にかろうじて復帰を果たしたものの、ニューヨークへの遠征中、深夜のクラブでとうとう“その時”がやってくる。

 左膝骨折と靭帯損傷により、手術の甲斐虚しく身体は元に戻らなかった。チームは彼を解雇した。その時トンプソンはまだ30歳、通常ならばバスケットボール選手として、これから円熟期を迎えようとする年齢である。あまりに短いキャリアだった。

 1985年、再びNBAに復帰すべくインディアナ・ペイサーズのテストを受けるが、その夢も叶わなかった。そしてトンプソンは、ますますドラッグにのめり込んでいった。

 1986年、自己破産を申請。豪邸やオリンピックサイズのプール、テニスコート、数台の高級車もすべて失った。同年、家庭内暴力による執行猶予中に再び暴力をふるい逮捕。180日間の懲役刑を受ける。1988年、地元に新しく誕生したフランチャイズ、シャーロット・ホーネッツがコミュニティ・リレーションズ・ディレクター(地域との交流を図る部門の長)としてトンプソンを採用するも、ドラッグが原因で3か月後に解雇――。

 1980年代後半から90年代にかけて、ジョーダンがバスケットボールに変革をもたらしたように、1970年代にはトンプソンがいた。アメリカ中の子どもたちが、一度は「♪Be Like Mike」と口ずさんだように、その頃の子どもたちは「いつかスカイウォーカーのようになりたい」と夢を見た。当のジョーダンですら。
 

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